鯖色

鯖のブログです。

腕の蛇

 のたくって眠りの底から這い上がると、痺れの仲間なのか、腕の中で蛇のようなものが動いている。あまり突っつくと暴れるかと思って、頭だけ腕の上から移動させて、暫く様子を見ることにしたかったが、この蛇、こちらの動向とは関係なしにビリビリと動く。その刺激にのたうち回りそうになりながらも、体がベッドに磔にされている暗示を無心で自分にかけて体を動かさないことに集中していると、あっさり消えて跡形もなくなっていた。なんだったのか。やはり、太り過ぎなのだろうか。それとも、何かの思い込みか。夢の感覚の名残か。得体が知れにないままのたくって消えた。外から眺めるている分では、腕には何の異常もなさそうだ。ただ、外から眺めて分かることなどたかが知れている。
 痙攣は前にも経験があったが、こんなにも生き物らしいのは初めてだった。無論、本当に蛇が入ってしまったわけはなく、その生き物らしさは俺自身の体が持つ生物らしさなのだろうが、それにしても異物感は凄かった。あれで終わりならいいが、何かの初期症状かもしれないから、検査でもしておくべきだろう。念の為に行って、なんでもなかったら恥ずかしいので、一応ネットで調べようか。[腕の中 蛇がいるような感覚]。案外何でもないのかもしれない。ただの水分不足や塩分不足。夏だからそういうこともあろう。
 ただ、結局は痩せろという話になってきそうで、そうだった場合のことを思うと億劫だ。痩せるのがそんなに偉いか!と凄みたくもなるが、実際は太っているのが卑しいだけかもしれない。健康のことを考える前にもっと生活の楽しみのことや、心の栄養となるようなことを考えたい、というのは倒錯しているかもしれないが、そこの楽しみや栄養のあたりが上手く行ってないから太ってるわけで、ただ頭ごなしに痩せろとか食うなとか言われるのは、俺としても不服だ。しかしながら、健康であることは良いとされていて、実際良いと言ってしまっていいようなものだ。それが気に食わない。とはいけ、病気にかかったら病院に行きたいし、何か事故にあったら入院もしたい。だから、健康様や病院様には楯突けない。些か情け無いとは思うが、不健康な自分が健康であることに勝つ術はない。諸行無常なり。
 検査を受けるだけ受けて、「では痩せてください。それだけです。薬?そんなもん要らないですよ。太ってるだけなんだから。そうでしょ?」なんて一笑に附されたら呆れるべきか怒るべきか悲しむべきか分からない。昔は林檎が赤くなれば医者が青くなるなどと言ったらしいが、現代の医者がそんなことで青くなるところはとても想像できない。それに医者だって患者が多すぎて困ってるくらいのものだろう。とすれば赤い林檎の果糖に怯えているととることは出来るかもしれない。
 そういえば、アダムとイブに知恵の実を勧めたのは蛇ではなかったかと、思考が飛躍する。何故そんなことを無学な俺が知っているのかと言うと、星新一の『進化した猿たち』という、アメリカの一コマ漫画を解説している本で、アダムとイブネタが多かったから、そこで蛇も扱われていたのを覚えているからなのだ。例えば、蛇が「お次はこれを……」とかなんとか言って、オレンジをイブに勧めるのだ。どうやら女性は妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるらしく、そこまで用意周到なのかよ!というギャグだ。蛇は俺には一体何をもたらしてくれるというのだろうか。このまま糖尿病患者になったらインスリン注射ということになるだろうか、え?
 そういえば眠っている間は随分幸せな夢を見ていた気がする。かつて好きだった、今でも心残りのある、実際には何の関係にも発展しなかった女性とスーパーで食材選びをしながら、食卓のことを語っている夢だった。細部はすっかり欠けてしまっているが、起きたときのガッカリ感だけは覚えている。自意識というブラックボックスの中で、日夜錬成されている夢は良いのでも悪いでも、結局嫌な思いをしてしまう。起きた時のガッカリ感か、寝ている間の恐怖か。どうにもならないものだろうから、これをどうこうしようとは思わないが、それにしてももうちょっとマシな睡眠にならないものか。或いは、もうちょっとマシな人生に。
 マシな睡眠といのは想像が出来る。少なくとも、マシな人生などというものよりは余程具体的に想像が出来る。それは、起きたときにガッカリせず満足する睡眠であり、寝ている間に恐怖せず充足する睡眠だ。いや、これも抽象的と言うか、言葉の上でひっくり返しただけで、具体的な想像と呼べるものからは程遠いだろう。だがそうであればあるだけ、マシな人生と言うものの形が見えてこない。決められた形があるわけではなにしても、大体こういうことだと指し示せれば、まだ具体的な方策の取りようもありそうだが、そんなことは出来そうにない。出来るのは甚だ不明瞭な想像だけで、それは何となく今よりもマシな人生としか言えないのだ。
 もっとマシな人生に、もっといい人生に、もっといい経験や過去や想像力を、俺に。これでは想像とは呼べない。ただの惨めな嘆慨といったあたりだろう。だが、嘆きでない願いに切迫したものががあるだろうか。そして切迫した願いでないもないのに、身につまされるような想像力を働かせることなど出来るだろうか。無論身につまされるような想像力なんてものはたった今でっち上げた用語に過ぎないし、仮にそれが俺にあったとしても俺の現実が変わっていないのは他ならぬ事実だ。しかし、この身につまされるような想像力の重みを誰に否定出来るわけでもない。
 まず俺はその想像力を駆使してこんな風に想像ことが出来る。俺の現実は暗く、明るい過去が幾らかあったにしても、明るい未来を想像することは不可能に近い、ということが喉元に突きつけられているように感じられる。そして、それはこの太って醜い体と、幼稚で愚かしい心によるもので、これらは中々手強い敵で一朝一夕に倒せるものではない。これはさっきの喉元に突きつけられているようなというほどではないが、それなりに切迫感を持って理解できる。加えて、それでも恋愛との格闘を諦めるわけにはいかないということさえ想像できている。あるいはこれは信念の問題なのかもしれないが。
 或いは、これは物のついでのような想像だが、この現状はすべてさっきの腕の中の蛇が握っているようなものだ、と言えるかもしれない。言えるだけで何の妥当性もないことは重々承知の上だが、それでもそう考えることは可能だし、俺がそう考えることにはなんらの不思議もないとさえ言える。何故なら俺は暇で、妄想好きだからだ。妄想中毒者と呼んでもらってもいい。ユーモアを解する心があるかどうかには今一つ自信がないが、笑うのは好きだ。だから日がな可笑しなことを考えているが、それで笑っているわけではない。笑うに笑えない。今一つ、なのだ。
 だから口角が特にあがることのない日々を送っていて、辛うじて表情筋が駆使されるときと言えば、飯を口の中に詰め込んで咀嚼している時くらいのものだ。美味くもないスカスカの林檎を、炊き忘れた米の代わりに麻婆豆腐と一緒に食べる。麻婆豆腐が美味いだけだが美味いのに変わりはないから文句もない。文句を言える立場にない。言ったところで俺の作った俺の飯なのだ。それに、そう、本当に俺は文句を言える立場にない。現実にぶら下がって生きているだけの俺が、一体どうして文句を言えようか!そして、一体誰がその文句を聞き入れてくれるというのか!
 俺はもうすっかり平時の感覚に戻った腕に却って違和感を覚えながらも、麻婆豆腐を口に運び、そう思った。不平不満なら山とあるが、言ってどうなるでもないし、そこに希望が入り込む余地は毫もない。だから俺の口から出る言葉はおしなべて現状解決を目指した文句ではなく、嘆きだ。或いは、言ってもどうにもならないようなことを言った方がいいばかりか、言わねば世間の為にならないということもあろう。現実に跋扈する悪しき現象、悪しき人間、悪しき言葉を是正することなくやり過ごすのは、長期的に見て賢明とは言えない、と。

 これに、「賢明であることにどんな価値が?」という横槍は入れられるはずだし、今の俺は正にこの横槍にぐっさりやられて凡ゆる善性への努力を怠っている。賢明であることにも鋭敏であることにも謙虚であることにも、今更どんな価値があるというのか。モテず愛されず萎びていくだけの人生で価値のあることなどあるのか、とも言い換えられそうだ。

 俺は麻婆豆腐の入っていた空っぽの深皿に水を注ぎ、シンクに溢した。水を注ぎ、溢し、また注ぎ、また溢すのを繰り返している内に皿を叩き割って壊したくなったが後片付けのことを考えてシンクにそっと置いた。こういうギリギリのところで踏みとどまる判断が出来るようになるということが、大人になるということであり、無意味な人生を生きるということである。勿論嘘だ。ただ今おれがそうしたことは今俺がそうしたというだけだ。俺は叩き割ることも出来たが、ただそれも詰まらなく思えて止したというだけだ。

 時々、恋人が出来たところで何も変わらないんじゃないかと思う。友人にも言われる。何一つ、一切変わらずに何の慰めにも癒えにもならずに、ただ恋人がいるというだけの状態。それを考えるのは恐ろしいけど、それでも今よりはマシだ。深刻に自殺のことを考えざるを得ない日が続くよりはきっとマシだ。そう思わないと生きられないのか?何か言い訳がないと死ねないのか?もう、充分死に値するだけの人生を送ってきているというのに。

 血糖値が急激に上昇し、眠くなる。こういう行動の所為でまた太るというのに、また苦しい夢を見るというのに、また蛇のような痺れが来るかもしれないというのに、また怖れと憂鬱とに苛まれるかもしれないというのに、また何も変わらないと決まっているのに、生を延長させるように、俺は眠る。

梅酒のコーラ割り

 僅かに梅酒が入った紙コップへ慎重にコーラを注ぎながら、佐波先生は思ったのでした。この反省を抱えた今の状態で過去に戻れば、きっと上手く行くんじゃないか、と。佐波先生は正に先生と呼ぶのが相応しい極めて見識豊かなお方ですから、本人である私までもがこうして敬ってしまう程の人物であるとはいえ、これは未だかつてない発見に思われました。

 ──先生、その通りですよ、そうに違いありません。是非とも戻りましょう! 私はそう口にしたくなりましたが、私であるところの佐波先生が狂人と思われるのを憚って、梅酒のコーラ割りとともに飲み下すことにしました。甘過ぎます。

 周りでは、友人知人らが文学フリマに向けて何々をやってるだとか、何処そこへ旅行へ行っただとか、或いはこの唐揚げ美味しいねなどと冴えない話をしている中、こんなにも素晴らしい発想に至り、身を打ち震わしているのは佐波先生ただ一人でした。何故なら、佐波先生は誰とも話していなかったからです。

 しかし、一応その場の空気感を共にしてはいましたし、殆ど輪に入っているようなものでした。たまに自分にも分かる話題の会話が聞こえてきて、その会話に参加こそしませんでしたが、聞いているで充分に満足でした。いや、程々に、そこそこに……まあ、充分ではあったわけです。

 それに我らが佐波先生は周りの方々は気付いていないことに気付いています。そう、《過去に戻れさえすればすべてが上手く行く》ということにです。このことを思っただけで佐波先生は泣きそうでした。というか既に若干涙ぐんでいました。それもその筈です、これまでの苦労がまさかこんなにもあっさりと報われて、別離の悲しみは再会の喜びと変わり、未来永劫幸せでいられるばかりか、長いこと抜け出ることの叶わなかった鬱の渦からさえも解放されるのです。

 私たちは二人、抱き合いました。そして、やがては彼の女性と私と佐波先生の三人で抱き合うことになるわけです。それは宛らホドロフスキー監督の自伝的映画「エンドレス・ポエトリー」で、自分の父親と過去の自分と未来の自分との三人で抱き合っているシーンを想起させます。

 佐波先生はこれまでの長く苦に満ちた道のりを思い返し、途方に暮れ、仰向けになっていました。それはお酒に弱い佐波先生があっという間に酔いつぶれてしまっただけなのかもしれません。とはいえ、この酩酊が自らの抱えて来た時間の重さによるもであれ、単にアルコールによるものであれ、幸福なことには違いありませんでした。というのも、過去について考えることは未来について考えるよりも遥かに楽しく、その時の佐波先生の頭の中には最早過去のことしかなかったからです。過去の中に居るとさえ言って良いと思います。

 

   ◆

 

「また、会えて嬉しいです」

「佐波君は元気だった?」

「はい…………」

「そう、良かったね。私もそれなりに元気だったよ」

「ええ、僕もそれなりにです」

「こうやって会えるんだね」

「会えるみたいです」

「良かった」

「良かった」

 そういうことを言い交わしながら佐波先生は彼の女性と手を繋ぎ、それが初めての彼の女性と手を繋ぐ経験であるにも拘わらず、とても懐かしい夢心地になっていました。それに止めどなく涙が溢れます。幸福と安堵が同時に臨界点を迎え、感情は決壊していましたがそれさえも懐かしく夢心地でした。

「また会えて嬉しい?」「はい、元気です」「泣きそう」「もう泣いてますよ」「そこそこ泣いてる」「会えて良かった」「また会えて良かった」「泣かないで」「泣いてません」「でも良かった」「全部良かった」「嬉しい」「幸せ」「ずっとここにいたい」「ずっとここにいよう」「うん」

 そういうことを言い交わしながら、確かな手の感触に感動している佐波先生は私です。私である佐波先生は確かに感動していました。

 

   ◆

 

 目覚めると目元には一滴の涙もなく、そのことが不思議でした。どうやら起こされたようです。

「そろそろみんな帰るよ」

「ああ、はい」

 次第に明瞭になっていく意識とは反対に夜は真っ暗で意味が分かりませんでした。意味不明な夜の道をなんで自分が歩いているのか、なんで隣には彼の女性がいないのか、しかもそのことを平気で受け入れたみたいに電車に乗って帰っているのか、何から何まで皆目理解できず泣き出しそうでしたが、実際にはただ黙っているだけでした。電車の中でも、帰り道でも、一人なら黙っているのが普通です。でも、なんで私は一人なんですか?

 私は黙って家に帰り着き、全部が夢想だったと結論付けました。その始まりも、その流れも、その終わり方も、まったくもって夢想の始まり方であり、夢想の流れ方であり、夢想の終わり方でした。

 しかしそれでも、居たんです。あったんです。絶対に居たしあったし、それは間違いじゃありません。だからまた行けます。またお酒でもなんでも飲みます。絶対に戻れます。大体、お酒を飲み始めたキッカケだってその人と通話しながら飲んだからです。だから行けるんです。行けるようになるんです。

 ほら、今濡れた机の上を紙コップが手前に滑ってきました。これだって、彼の女性が私との再会を待ちわびている、他ならない証拠じゃないですか。もういない、彼の女性が、私に飲酒を勧めてるんですよ。思えば、彼の女性は私が酒に苦しんでいるのが好きでした。私を試しているというのなら、受けて立ちます。

 こうやって興奮したり絶望したりしているのもすべて彼の女性への愛と思うと愛おしい。

「ちょっと家に彼氏来るからどっか出てて」

「ああ、うん」

 このように妹に追い出されもしますが、まあ平気です。何故なら《過去に戻れさえすればすべてが上手く行く》からです。次は、もっと上手くやります。また会えると思ったら、元気が出てきました。

 私……いや佐波先生でした。佐波先生はこうして川沿いを歩いています。コーラのペットボトルに少し梅酒を注いだものを片手に持っています。夜です。暗いです。でも、意味不明じゃないです。段々分かってきました。色んなことの意味が分かってきて、また苦労が報われるとそう思いながらお酒を飲んでいます。

 やっぱり甘すぎな気がします。でもそういうことにも全部意味があり、「全部良かった」となる時がきます。だから、歩いている隣で異常な量の水が流れているのも、その水の向きとは逆に歩いているのも、カーブミラーの上に烏が止まっているのも、全部意味があります。全部が、繋がっています。繋がっていること自体がもう、泣きそうなくらい幸福なことなんです。

鬱病の 症状みたいな 文章だ

「全員ぶっ〇してやる!」と思いながら、ベッドで横になったまま動けないという経験は誰しも一度はあるのではないだろうか。下手をしたら一度どころか毎日そうなっているという人もいるかもしれない。実を言うと私も今朝二時半くらいに起きて「〇ね!ぶっ〇してやる、このク〇ガキども!」と口の中でもごもごしながら意識をはっきりとさせていったからよく分かる。因みに何故そんな罵詈雑言を吐こうとしていたのかというと、確か家を出て図書館に本を返しに行くイメトレをしていたら、道中で自転車に乗った小学生が猛スピードで抜かしてきたからだった。しかもその小学生は車が通っていないとはいえ赤信号も平気で渡るような奴だから当然俺のような同級生からは嫌われているものの、それが却って男らしいということになってすべての女にモテているのだった。今思い返しただけでも腹立たしいが、世の中にはそういう悪の権化のやつがごまんといて、どいつもこいつも俺の空想の中に登場して俺を迫害してくるから許せない。

つまり、私は何も間違っていないのだが、こういう空想ばかりしていると現実世界の出来事に対応出来ないのも事実である。私は眠りを覚ますように自分の太腿を二三度殴る。鬱病の所為か無気力だといきなり全身を動かすのは難しいので、まずは指先だけ動かして段々と可動域を広げていくのがオススメだが、指先ばかり動かしていると、「俺以外の全人類はヴァギナに指を突っ込んでお楽しみ中だってのに、なんで俺の指は空を切るだけなんだ!」という思いに駆られる可能性がある。しかしながら、蘆の角が何もない空間を切って物や世界や思想が現じ始めたように、一先ず空を切るところからしか始めようがないしそれでいい。怒りのままにさっさと自身の体の一部を殴ったり蹴ったりすれば、怒りは増幅し充分なだけのエネルギーを蓄えられる。実際にするかどうかはともかく、それでこそ本当にぶっ〇すことが出来るようになる。

自分は何も出来ないと思ってしまいがちだが、案外何でも出来るものだ。周りの目を気にしてやっていなかったことをやるだけで自信はついてくる。過剰なくらい腕をふって歩き、電車では迷惑にならない程度に独り言を言い、俯きながらでもファイティングポーズをとって空を殴りながら図書館へ向かう。大丈夫そうな野草を少し齧ってみたり、歩道と車道の間の段差に乗ってみるのも良いかもしれない。所謂奇行と言われそうなことも、やってみると案外楽しいものです。そうやって目の前の出来ることを増やしていくことでしか、自信をつける方法はありません。空想上の小学生に本気で怒れるのは、それくらいギリギリ限界のところにいる証拠だと思いませんか。誰に話してるんですか。

「均衡と循環こそが善だと思うので、誰が誰を打ったとかに一々気を煩わされる必要はないけど、なんか倫理とかがある所為でそれが見えにくくなってると思いませんか。どこにも行かない暴力とか信念の潰し合いだと開き直ると、全部の私怨が正当化される感じがしませんか。あと自分、王殺しと神殺しにしか興味ありません」みたいな顔で街中を歩いている女の子のことを想像したら、どうせこいつも俺と恋人になったりセックスしてくれたりはしないんだろ、ということでぶん殴りそうになってしまったけど、存在しないから事なきを得た。無敵の人かどうかは分からないが、怒るべきときに怒って殴るべきときにちゃんと殴れるようになりたいと思う。逆にそのときまでは静穏に暮らしたい。

静穏な日々の中では、朝に鰊の干物や豆腐の味噌汁と一緒に白米を食べ、昼まで部屋で本を読む。初夏なら家の中の一番涼しい風の立つ場所を探し、晩秋なら散歩がてら土筆でも探しに行きたい。親が死に妹が何処かに嫁ぎに行っても、私はこの家に居るのだろうか。不安を素通りしつつアニメを見、ゲームをし、たまに泣き喚く。それが終わったら処方箋を煎茶か何かで流し込み、眠る。そして、時がくればいつでも怒りを沸点まで持っていけるようにしておくことだ。悲しみながら怒り、怒りながら悲しんでいるのはいつものことだが、肝心の時に怯んでいてはならない。時が来なければそのまま死んでしまうのだろうが、それが一番恐ろしい。

後になって「あの頃は病でおかしくなっていた」とかは間違っても言いたくない。今が本当に苦しいし、私は間違ってないし、私以外全てが間違っているのだから、それ自体がどうにもならないにしても、何の疑義申し立ても出来ないまま死んでいくのは不服だ。だが、どうにもならない。こういうことを考えていると怒りのガスが心に満ちてくる。着火するもしないも私次第だが、段々とまた無力感に苛まれてくる。ベッドの上でまた「全員ぶっ〇してやる!」と思いながら、体が動かない感じになってきた。どうせいつでもやれるんだし、今は何もしないでいよう。何もしたくないし、何も出来ない……。

一番強い光は太陽 二番目はアニメ

日が昇ると意識が遠のく。意識が遠のけば遠のくほど太陽はますます光を強くして高く昇る。微かな意識でも確かに認識できるほど太陽は明るく高く暑かった。「ああ。これならきっとまだ暫くは明るい筈だ。きっと次に起きたときも……」そのことに安らぎを覚え意識は途絶える。そして寝苦しい夢から逃げのびたかと思って顔をあげると窓の外は既に暗い。一日の始まりだ。

光がなければ物は見えない。なので夜に忙しく活動する人間として灯りは欠かせない。俺は部屋の灯りを点ける。枕元の眼鏡、ベッドから落ちた布団、溢れかけのゴミ箱、机の上のパソコン、本棚の中の漫画や文庫本や単行本。いつも通りの部屋、いつも通りの現実だ。そんな何の面白味もない部屋を見渡していてもしょうがないので俺は気を紛らすためにアニメを見る。そう、太陽の次に明るい光、アニメ。

アニメーションの語源は霊魂を意味するアニマというラテン語らしい。ウィキペディアには更にこんなことも書いてある。「生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味する[3]。」と。確かにその通りだ。そして俺なりに注釈を加えるなら「生命のない動かないもの」とは「気力のない鬱病患者オタク」のことである。中には「命を与えられ」ずに動かないものも居るが、少なくとも俺の魂は動いているのでよしとする。

「エンゲージ・キス」を見た。素晴らしいアニメだ。いや、これだけ心躍るアニメーションはアニマと呼ぶべきかもしれない。第02話までのヘンテコメンヘラ日常展開が好きだったものとしては、あの終わり方は正に「未解決で大団円」という第13話タイトル通りのもので嬉しかった。これほど現実ではありえないアニマ的リアリズムを貫いてくれた制作陣には感謝しかない。だから良いアニメを見るといつも、最終的には「ありがとう」しか言えなくなる。

現実は一個しかなく、あまりに強固で残酷だ。太陽の光が照らし出すのはそういう物語のないクソみたいな世界だ。対してアニメは幾つもあり、その一つ一つに思いが詰まっているし、物によっては感動するくらい面白い。虚構と言うと現実逃避みたいだが、みんな最終的には各々の虚構の方へひた走っていくべきだ。こんな現実はいつか消えるべきだ。

とはいえ、親しい友達に出会ったのも愛しいあの人に出会ったのもこの現実だ。それに今暫くは現実がなくなることはなさそうだし、それまではなんとかやっていくしかない。自分で小説を書いて、それで認められるようになりたい。いずれ、読んだ後にこのクソな現実が少しでもマシに思えるような小説を書きたい。

アニメを見るとたまにそういう熱い気持ちを思い出させてくれる。一時は自殺だけが強い光を放っていて他のすべてを見えなくしていたが今は違う。その状態もいつ崩れるか分からないが、少なくとも今は違う。幾つもある道の先を示し導く光がある。あとは自分がやるしかない。精進しかない。

これはまたいつ鈍るとも分からない直観だが、今悟った。俺たちは一人一人が太陽=恩寵=アニメ=霊魂=物語=光なんだ。その時ふと、何に対してかも分からない「ありがとう」の気持ちが溢れて来て、歓喜の涙に打ち震えそうになった。光なんだ、すべてが。ありがとう。俺は感動しながら自分の状態を察知し、頓服を飲んだ。そのことももう、他と代えがたいほど光だった。

n度目かの恩寵

Slay the Spire(以下スレスパ)というゲームがある。カードを使って敵を倒していくゲームなのだが、ローグライクといってその都度異なるマップ、異なるカードをデッキに加えながらラスボス戦までの勝利を目指す。運に左右されながらも実力や経験則が必ず活きてくるのがこのゲームのミソだ。しかも中々シビアな難度なのでギリギリで勝敗が決するところも面白い。ただ面白いだけでなく一プレイがそれなりにかかるので、それを勘が鈍らない内に複数回もやるとあっという間に夜が朝になっている。そして朝が昼になる頃にやっと寝て、夜に起きてまたスレスパに戻るという生活をしていた。

一年程前だ。それだけ一つのゲームをやると、しばしば「俺は何でこんなことを」と呟いたり吠えたりもしたくなる。しかし、時間は戻らないし楽しいのは事実だ。それに他にすることなどない。現実的に、鬱が悪化しない範囲でしたいことをするならスレスパ以外に選択肢はない。目標がないわけではないがどれも達成が程遠そうで、それはラスボス戦で勝つよりも先になりそうだった。実際、ラスボスには勝ったがまだ恋人は出来ていないし小説家デビューも出来ていない。それでも今はまだマシだと思うから話を戻すと、そもそもスレスパは友人からギフトで貰ったものだった。ツイッターで知り合ったが、その人はツイッターを既にやめてしまっていた。そして呪いのようにスレスパだけが残った。

現実で何も出来ていなかったのは殆ど全て自分と自分の病気の所為だろうが、スレスパのような際限なく出来てしまうゲームは劇薬にも近しい効果を発揮して時間がみるみる内に消えて行った。勿論それだけをしていたわけではない。麻雀やゴッドフィールドもやっていたし、インターネット上でなら交友関係もあった。瞬く間に接近しすぐに崩壊する、結局その中で負った精神的な傷のことが一番印象に残るような異性との思い出なら少しはある。何れも自分が勝手に重くなって破綻して行ったもので、その大半は友人関係に留めておこうと思えれば留められたような気がするものだ。

トライ&エラーの絶え間ない反復を繰り返している内にまた朝が来て、恩寵を感じた気がする。詳しくは覚えていない。別にゲームをクリアしたわけでも人間関係が快方に向かっていったわけでもないのに、朝の光が窓から差すと素朴に消えたいような嬉しいような気分が喚起されて泣きたくなった。

今でも何も進歩していないのかもしれない。そういう恩寵はありふれたもので、本当にゲームを終えたときや人間関係が良い状態にあるときでも感じるし、そうじゃなくても勝手に錯覚して切ない多幸感に包まれる。鬱病が治ったと思っては泣き、治ってないと思わされるほど鬱になっては泣き、その都度新鮮に恩寵を感じていた気がする。どれも思い出すと曖昧だが、その時々ではいつもハッキリと何かを近くしていた。

久しぶりにスレスパをやってセンチュリオンという盾役を先に倒すべきか、ミスティックという回復役を先に倒すべきかも分からず詰んだ。心が荒むのでアニソンを聞いてノスタルジックな癒しを得た。今は別のゲームをやっている。

クッキークリッカーというゲームで、クリックしてクッキーを増やし、そのクッキーを通貨に工場や銀行を作ってクッキーを更に効率的に作っていくだけのゲームだ。ギミックは多少複雑な部分もあるが目指すことは単純で只管クッキーを増やすことだ。夜だった外は朝に変わりまた窓からの日差しを浴びた。

不眠症気味で、まだ学校に通っていた頃は朝まで何もせず起きていて、朝になると寝なければいけないという脅迫観から解放されてそれでよく眠り、単位を落としまくったものだが、その頃のとも違う気がする。いつだって太陽は素晴らしいと思うと同時に、自分にとって正にそんな異性がいたことを思い出して感動する。

太陽が消えても八分間は地球に光が届き続けるらしいと、昔見た映画で言っていた。パソコンから流している「プラスティック・メモリーズ」のOP曲が、「忘れないで、覚えていて」というフレーズにまでさしかかると比喩でなく打ち震えて様々な思い出が戻ってきたした。思い出だけはいつまでも持っていけるが、そうでないこともある。スレスパで一回死んだらその経験は持っていけても、その時手にしたものはすべて手放さなければならない。しかも、現実ではもう二度と巡り合うことのない出会いもある。

アニメも異性との思い出もファスト消費をして、それで立ち向かっている対象がスレスパ。或いはクッキークリッカー。太陽の光を浴びてセロトニンを作り、偽物だか本物だか分からない幸福感を味わうが、そこで得た直観は些細なキッカケですぐに瓦解する。それの繰り返し。

やがて身の回りや自分自身を良くしたいと思う気持ちも薄れ、躍起になることに疲れる。それでも死なない限りは人生に続く。それまでの暇つぶしにスレスパやクッキークリッカーが役に立つ瞬間はあるかもしれないが、そこから抜け出られないと一生無力感に苛まれる。

だから、光のあるうち光の中を歩めではないが、恩寵のある内に少しでもマシなことをして少しでも理性を取り戻していかないといけない。大丈夫、まだ間に合う。まったく何もしてこなかったわけじゃないし、交友関係にも幸い恵まれている。空虚な拡大再生産のためのゲームしかできなくなっている精神状態から抜け出て、長い眠りから覚めればきっとその時こそ本当の恩寵を感じられるのかもしれないのだから。偽の報酬系でなく本物の報酬系なんてものがあるのなら、という話だけれど。

ペニスのオタク

1 オナニー

 私は二〇一八年の冬から約五年かけてオナニーをしていた、と言っても過言ではない。それは気の遠くなるほど長いオナニーだ。まるで一時快方に向かったかと思えばまたぶり返し、またうなされする熱病にでもうかされているように、私はオナニーの方へ幾度となく引き摺り戻されていった。無論、私自身が本気でそれを止めようとしなかったというのも大いにあるのだが。

 

2 バイト

 バイトをしに都内の大学まで赴いた。というのも、私は自分がまともなバイトが出来ないであろうことを見越した上で、実験バイトに応募していたのだ。初めてだった。どうだったか? パソコンの前に座り、真ん中の十字の左右に点がほぼ同時に表示される。どちらが早く表示されたか、ひたすらコマンドを打ち込み続ける。そういうバイトだった。声がかかりやっと終わった、と思ったら今度は左右でなく上下で同じことをやらされた。カチカチカチカチ。何をやってるんだ。

 


3 池

 帰り道、私はAという女性にメッセージをした。大事な人だった。彼氏がいるが、とても優しく、バイトのこともそのAさんが教えてくれた。「疲れました。意外と長かったです、二時間だけでしたが」。返信はすぐには返ってこない。私は交通費を安く済ませようと、最寄りではない駅まで歩いていた。その途中に池があって、私はその池を眺めながら返信を待った。端的に言って私はその女性が好きだったが、そんなこととは関係なく、返信はない。スマホの充電もなくなってしまった。諦めて駅まで歩くことにした。池にはアヒルボートが何艘も浮かんでいた。

 


4 希死念慮

 辺りが暗くなっていた。その頃はまだ暗い道を歩く度に怯えていた。私は夜遅くまで塾で勉強などしたことはなかった。前にも好きな女性がいて、別れられた。別れられて、また好きな女性が出来た。その繰り返し。そういう進行をする指示記号がどこかに置かれてしまっているみたいだった。私は今好きな人が好きだが、それは叶わぬ恋というものだった。Aさんには彼氏がいるからだ。Aさんは私を恋愛対象としては見ていないからだ。Aさんは、他の数多いる女と同じ女であるからだった。東京までの往復で、バイト代もかなり消えた気がする。仕方のないことだ。

 


5 ペニス

 ペニスが思考の頂点に君臨しているからアイツはダメだ、と陰で年上の男性に言われていたことを知り、その男性のことを私は別に好きでも嫌いでもなかったが、酷く傷ついたのを覚えている。確かに、ペニスが思考の頂点に君臨している。他のことはどうでもいいわけではないが、二の次には違いなかった。だからといって、自分でもどうしようもないのに、なんでそんなことを言われなければならないか、とも思ったが、なりふり構わず求愛し、余裕のない素振りをしていた私のような人間はそういうことを言われなければならなかった。

 


6 通話

 「お疲れ様〜。最初はそんなもんだよ」と割に月並みな返信が返ってきた。私は嬉しくてまた通話を申し出た。了承された。私は戯れに何度も求愛したが、それは巧みに躱された。しかし、通話が楽しいのには変わりなかった。本当に頭がおかしくなっていた。好きだった。愚痴をいくら聞いてても良かったし、極めて優しく接していた筈だったが、そんなものは下心のなせるわざとしか思われていなかったに違いない。私はBと通話をし、翌日にはCとも通話をした。Bは誕生日だった。Cは誕生日ではなかった。

 


7 ブロック

 Cからブロ解されていた。やりきれない気持ちになり、Aに縋りつくも、意味はなく、私は結局Aをブロックした。Bに彼氏はいないが、いつも忙しそうなので、わざわざ声はかけなかった。しかし、結局Bとも関係は途絶えた。私は悲しかった。ほどなくして別に仲良くなった女性がいたが、その女性とも上手く行かず、というかその女性には思い人がいたため、私は自殺未遂をした。大まかに言えば、そういうことになる。

 


8 繰り返し

 求愛し、失敗し、縋りつき、拒絶され、悲しくなり、なんらかの行為に出る。愛されたかったが、愛されなかった。友達でしかなかった。その先はなかった。それはあるときにはどうということもない事実だったが、またある時には絶望的な事実だった。繰り返しを繰り返すたびに私の感情の振れ幅は小さくなったかに思えていまが、その実大きくなっていた。あらゆるAとBとCを私は憎悪しながら愛していた。

 


9 読書

 鬱が激しいと文字が読めないし、何をする気も起きない。そんな中でも手を差し伸べてくれる女性がいると、私は過度に好意を抱いてしまう。その女性の中に、今までのすべての女性が見える。そればかりから、これからのすべての女性も見える。あるのは使い古された希望と絶望。どちらも虚妄だ。私は小説を読み、書くことに逃げた。執着した。小説が好きなのは本当だが、小説を書いても意味はなかった。現実的な意味は、ほとんど。

 


10 反省

 ひどいことを言われる。度々その姿を変える女性に色々なことを言われる。的を射ていると思えることもあれば、そうでないこともあるが、とにかく耐えるしかない。私は耐えるしかない。ゆっくりと流れる場合でも、素早く流れる場合でも、私はただ耐えている。反省をしようと思っても、恋人が出来ないことには出来ない。ましてや恋人がいる人に言われても。

回復への試み

とても寂しい夜が来た

 とても寂しい夜だ。

 僕はどうしようもなく僕だ、ということを思わされる。つまり、動かしがたい現実の事実として、僕は鬱病非モテで無職のいいとこなしなのだ、ということを。

 そんなことを何度繰り返し言ったって何も変わらないだろ、というようなことを言う人もいるかもしれないが、そんなことを言おうが言わまいが関係ないのは分かってるんです。

 ただ、苦しくて仕方ないから苦しいって叫ぶし、助けを求めてしまうんだ。勿論、そんな状態のまま抜け出せない人間は弱いんだけど。

 いや、実際に、本質的にどうかなんてことを誰も気にはしていない。ただ、弱いというレッテルを貼られ、また自分もそれを自嘲的に語る他ないのだ。

 とても悲しい夜だ。このままきっととても悲しい朝を迎えて、昼を寝て過ごし、また夜がやってくる。その繰り返し。ワンパターン。

 こんなのっぺりした、みすぼらしい人生、といって悪ければ生活を送ることになったのは、何が悪いんだろう。

 一つには鬱があり、また大学をやめて働かず無職なことがあり、そして非モテで、それを気にしてるということがあるのかもしれない。

 しかし、それらはどこかからともなくやってきて、僕に永久にへばりついこうとしているようなものだから、あまり原因はわからない。

 結果のことを考えよう。結果というか、状況と言った方が正しいかもしれない。誰が望んだわけでもない、ただの状況。

 状況分析を試みるも、僕の現実の状況は、様々な要因が複雑に絡み合ったものだとしか分からない、それ以上は言えない。

 他のどの現実の状況とも同じように、ただそこにあるものを見ろ、以上。とパソコンがエラーを吐き出すかのように僕は思考を放棄した。

 そうだ寂しい夜は女性と通話して気を紛らわすことにしよう、そう思って連絡するも返信は来ない。夜も夜の深夜だから。

 他の人に連絡すると、彼氏と通話していると返信が来る。あーはいはいなるほどね、オーケーオーケー、分かったよ。

 全部これだ。この繰り返し。コピー&ペースト。様々な声が反響しては消えていく毎日、生活、人生。

 

インセル

 綱渡りをするようにして、僕は生きているつもりになっている。僕はそう思っている。息継ぎをするようになんとか生きている、それで精一杯、多分。

 でも外から見るとそうではない筈。僕は横たわって自らのペニスを扱いているだけだ。そして、陳腐で意味のない愛の文字列フリックしては、鬱を悪化させているだけだ。

 女オタクのオタク、女オタオタとして身から溢れんばかりの愛を抱えていたつもりかが、いつの間にかインセルになっていた。

 ミソジニストとか似た意味で使っているから、あまり正確な定義は分からない。女を嫌い、女を憎悪し、女に殺意を抱く、それが僕だ。

 ただし、僕が嫌い、憎悪し、殺意を抱くの女だけではない。女と恋愛関係にある男とか、僕を馬鹿にするやつらとか、とにかく気に入らないものは、一杯あるんだ。

 でも、これってもとはそうじゃなかった。きっと最初はもっとシンプルに鈍感に考えていたことなんだ。どこか遠くのことのよう眺めていて、それがいつからか歪な形に……っていうのは少し自己憐憫に耽り過ぎだ。

 究極のインセルになって女を殺すか、普通に鬱で自殺するか。世界は変えられないんだから、そうするしかないような気がする。

 硬く握りしめ続けた拳はもう開けないのだろうか。インセルとして女を殺せば、少しは人生に釣り合いが取れるだろうか。

 つまり、これだけひどい目にあって苦しいのだから、嫌なやつに一矢報いるくらいはできた、と思えるだろうか。

 ここに来て立ち止まる。

 それでも女性は美しい。しかし僕の方を振り向いてはくれない。それでも女性を愛したい。しかし僕の愛を受け入れてはくれない。それでも遠くで祈りを捧げ続けるべきなんじゃないか。しかし……

 

人間を捨てよ!

 尊敬できるその道のフォロワーと話すと、少し盲が啓かれた感じがあった。

 その一、死んではならない。何故なら死んだら小説を読めず、書けないため。手を動かし続けて小説と向き合おう。それはきっと楽しいことの筈だから。

 その二、インセルになってはいけない。愛されることはないのだから、あまり人間に期待せず、憎悪を抱かないようにしよう。女フォロワーはかわいいし、何がその周りを取り巻いていようとも、それは変わらない筈だから。

 その三、人間をやめなければならない。人間関係に冷淡になって、小説に打ち込め。さもなくば俺は死す。いいな。

 と、まあこれは僕の感じたことであって、直接言われたこととは多かれ少なかれ違って僕脚色が入っているが、まあ、そういうことを感じ、思った。

 しかし、そこまで振り切れられるだろうか? いざ色んなものを捨てて小説に打ち込もうとしても、そこで女性が現れ、また消えたら、もうどうにもならない気がする。

 そこで生まれるであろう解けないような蟠りをなかったことに出来るだろうか。

 異性愛規範を壊したいとかではなく、むしろそれにドップリなだけに苦しんでばかりいる。しかし、死んだら生まれる筈だった小説は生まれない。それは悲しい。

 どんなにつまらない小説でも、書かないよりはいい。では、どんなにつまらない生でも死ぬよりはいいのだろうか。答えは考えないでおくけれど。

 鬱と距離を取り、人間の感情ともなるべく距離を取り、あまり感情的にならずにストイックに小説を書きたい、理想としては。

 得意不得意はさておき、自分は小説に合っているのかも知れない、と思う。思うことにする。他に好きなことは、気心の許せる人とのお喋りと食事、睡眠、オナニー、Twitter

 小説はきっと健康にいい。祈りくらいの意味はある。自己療養へのささやかな試みではある。

 

日はまた昇る

 夜が明けたが、これは明けない夜はない、ということを意味しない。これは、日はまた昇るということを意味する。

 私は世界だから分かる。世界は私だから分かる。

 すべてのことに意味があるわとは思わないが、意味のあることもある。この世界は一人の人間の中身で、それは一人一人の人間の中身で、その一人は私だ。

 自殺行為の一環として、カフェイン剤を大量に服用してから、川に飛び込んで岸辺で憔悴していたとき、長い長い夜だった。

 その時、死ぬんだと思って、川の向こう岸が、彼岸が見えた。夜だから水の重たいうねりがあった。

 僕はタスケテーとかダレカーとかキュウキュウシャーなどとぼやぼやうめき続けていた。やがて誰か助けを呼んで救急車が来た。もう朝だった。

 酷薄なまでに日はまた昇る。この世界は変わらないし、どうにもならない。

 あ一応言っておくと、これは別に、小説を読んだら鬱が治るとか死ぬのを止められるとか、当然そんなことを言いたいのではない。

 僕がたまたま小説の読み書きが好きで、それを再認識させてくれる友人がいたから、まだ生きているだけで、他の人は知らない。死んだ方が楽な場合はあるだろうし、悲しいけど悲しいだけだ。

 死んだ方がいいことはある。死は怖いけど。

 まだインセルでもあるし、全然人間でもあるけれど、早く解脱したい。解脱が無理だとしてもそちらへ行こうとし続けるしかない。

 以上。