鯖色

はい。

ペニスのオタク

1 オナニー

 私は二〇一八年の冬から約五年かけてオナニーをしていた、と言っても過言ではない。それは気の遠くなるほど長いオナニーだ。まるで一時快方に向かったかと思えばまたぶり返し、またうなされする熱病にでもうかされているように、私はオナニーの方へ幾度となく引き摺り戻されていった。無論、私自身が本気でそれを止めようとしなかったというのも大いにあるのだが。

 

2 バイト

 バイトをしに都内の大学まで赴いた。というのも、私は自分がまともなバイトが出来ないであろうことを見越した上で、実験バイトに応募していたのだ。初めてだった。どうだったか? パソコンの前に座り、真ん中の十字の左右に点がほぼ同時に表示される。どちらが早く表示されたか、ひたすらコマンドを打ち込み続ける。そういうバイトだった。声がかかりやっと終わった、と思ったら今度は左右でなく上下で同じことをやらされた。カチカチカチカチ。何をやってるんだ。

 


3 池

 帰り道、私はAという女性にメッセージをした。大事な人だった。彼氏がいるが、とても優しく、バイトのこともそのAさんが教えてくれた。「疲れました。意外と長かったです、二時間だけでしたが」。返信はすぐには返ってこない。私は交通費を安く済ませようと、最寄りではない駅まで歩いていた。その途中に池があって、私はその池を眺めながら返信を待った。端的に言って私はその女性が好きだったが、そんなこととは関係なく、返信はない。スマホの充電もなくなってしまった。諦めて駅まで歩くことにした。池にはアヒルボートが何艘も浮かんでいた。

 


4 希死念慮

 辺りが暗くなっていた。その頃はまだ暗い道を歩く度に怯えていた。私は夜遅くまで塾で勉強などしたことはなかった。前にも好きな女性がいて、別れられた。別れられて、また好きな女性が出来た。その繰り返し。そういう進行をする指示記号がどこかに置かれてしまっているみたいだった。私は今好きな人が好きだが、それは叶わぬ恋というものだった。Aさんには彼氏がいるからだ。Aさんは私を恋愛対象としては見ていないからだ。Aさんは、他の数多いる女と同じ女であるからだった。東京までの往復で、バイト代もかなり消えた気がする。仕方のないことだ。

 


5 ペニス

 ペニスが思考の頂点に君臨しているからアイツはダメだ、と陰で年上の男性に言われていたことを知り、その男性のことを私は別に好きでも嫌いでもなかったが、酷く傷ついたのを覚えている。確かに、ペニスが思考の頂点に君臨している。他のことはどうでもいいわけではないが、二の次には違いなかった。だからといって、自分でもどうしようもないのに、なんでそんなことを言われなければならないか、とも思ったが、なりふり構わず求愛し、余裕のない素振りをしていた私のような人間はそういうことを言われなければならなかった。

 


6 通話

 「お疲れ様〜。最初はそんなもんだよ」と割に月並みな返信が返ってきた。私は嬉しくてまた通話を申し出た。了承された。私は戯れに何度も求愛したが、それは巧みに躱された。しかし、通話が楽しいのには変わりなかった。本当に頭がおかしくなっていた。好きだった。愚痴をいくら聞いてても良かったし、極めて優しく接していた筈だったが、そんなものは下心のなせるわざとしか思われていなかったに違いない。私はBと通話をし、翌日にはCとも通話をした。Bは誕生日だった。Cは誕生日ではなかった。

 


7 ブロック

 Cからブロ解されていた。やりきれない気持ちになり、Aに縋りつくも、意味はなく、私は結局Aをブロックした。Bに彼氏はいないが、いつも忙しそうなので、わざわざ声はかけなかった。しかし、結局Bとも関係は途絶えた。私は悲しかった。ほどなくして別に仲良くなった女性がいたが、その女性とも上手く行かず、というかその女性には思い人がいたため、私は自殺未遂をした。大まかに言えば、そういうことになる。

 


8 繰り返し

 求愛し、失敗し、縋りつき、拒絶され、悲しくなり、なんらかの行為に出る。愛されたかったが、愛されなかった。友達でしかなかった。その先はなかった。それはあるときにはどうということもない事実だったが、またある時には絶望的な事実だった。繰り返しを繰り返すたびに私の感情の振れ幅は小さくなったかに思えていまが、その実大きくなっていた。あらゆるAとBとCを私は憎悪しながら愛していた。

 


9 読書

 鬱が激しいと文字が読めないし、何をする気も起きない。そんな中でも手を差し伸べてくれる女性がいると、私は過度に好意を抱いてしまう。その女性の中に、今までのすべての女性が見える。そればかりから、これからのすべての女性も見える。あるのは使い古された希望と絶望。どちらも虚妄だ。私は小説を読み、書くことに逃げた。執着した。小説が好きなのは本当だが、小説を書いても意味はなかった。現実的な意味は、ほとんど。

 


10 反省

 ひどいことを言われる。度々その姿を変える女性に色々なことを言われる。的を射ていると思えることもあれば、そうでないこともあるが、とにかく耐えるしかない。私は耐えるしかない。ゆっくりと流れる場合でも、素早く流れる場合でも、私はただ耐えている。反省をしようと思っても、恋人が出来ないことには出来ない。ましてや恋人がいる人に言われても。

回復への試み

とても寂しい夜が来た

 とても寂しい夜だ。

 僕はどうしようもなく僕だ、ということを思わされる。つまり、動かしがたい現実の事実として、僕は鬱病非モテで無職のいいとこなしなのだ、ということを。

 そんなことを何度繰り返し言ったって何も変わらないだろ、というようなことを言う人もいるかもしれないが、そんなことを言おうが言わまいが関係ないのは分かってるんです。

 ただ、苦しくて仕方ないから苦しいって叫ぶし、助けを求めてしまうんだ。勿論、そんな状態のまま抜け出せない人間は弱いんだけど。

 いや、実際に、本質的にどうかなんてことを誰も気にはしていない。ただ、弱いというレッテルを貼られ、また自分もそれを自嘲的に語る他ないのだ。

 とても悲しい夜だ。このままきっととても悲しい朝を迎えて、昼を寝て過ごし、また夜がやってくる。その繰り返し。ワンパターン。

 こんなのっぺりした、みすぼらしい人生、といって悪ければ生活を送ることになったのは、何が悪いんだろう。

 一つには鬱があり、また大学をやめて働かず無職なことがあり、そして非モテで、それを気にしてるということがあるのかもしれない。

 しかし、それらはどこかからともなくやってきて、僕に永久にへばりついこうとしているようなものだから、あまり原因はわからない。

 結果のことを考えよう。結果というか、状況と言った方が正しいかもしれない。誰が望んだわけでもない、ただの状況。

 状況分析を試みるも、僕の現実の状況は、様々な要因が複雑に絡み合ったものだとしか分からない、それ以上は言えない。

 他のどの現実の状況とも同じように、ただそこにあるものを見ろ、以上。とパソコンがエラーを吐き出すかのように僕は思考を放棄した。

 そうだ寂しい夜は女性と通話して気を紛らわすことにしよう、そう思って連絡するも返信は来ない。夜も夜の深夜だから。

 他の人に連絡すると、彼氏と通話していると返信が来る。あーはいはいなるほどね、オーケーオーケー、分かったよ。

 全部これだ。この繰り返し。コピー&ペースト。様々な声が反響しては消えていく毎日、生活、人生。

 

インセル

 綱渡りをするようにして、僕は生きているつもりになっている。僕はそう思っている。息継ぎをするようになんとか生きている、それで精一杯、多分。

 でも外から見るとそうではない筈。僕は横たわって自らのペニスを扱いているだけだ。そして、陳腐で意味のない愛の文字列フリックしては、鬱を悪化させているだけだ。

 女オタクのオタク、女オタオタとして身から溢れんばかりの愛を抱えていたつもりかが、いつの間にかインセルになっていた。

 ミソジニストとか似た意味で使っているから、あまり正確な定義は分からない。女を嫌い、女を憎悪し、女に殺意を抱く、それが僕だ。

 ただし、僕が嫌い、憎悪し、殺意を抱くの女だけではない。女と恋愛関係にある男とか、僕を馬鹿にするやつらとか、とにかく気に入らないものは、一杯あるんだ。

 でも、これってもとはそうじゃなかった。きっと最初はもっとシンプルに鈍感に考えていたことなんだ。どこか遠くのことのよう眺めていて、それがいつからか歪な形に……っていうのは少し自己憐憫に耽り過ぎだ。

 究極のインセルになって女を殺すか、普通に鬱で自殺するか。世界は変えられないんだから、そうするしかないような気がする。

 硬く握りしめ続けた拳はもう開けないのだろうか。インセルとして女を殺せば、少しは人生に釣り合いが取れるだろうか。

 つまり、これだけひどい目にあって苦しいのだから、嫌なやつに一矢報いるくらいはできた、と思えるだろうか。

 ここに来て立ち止まる。

 それでも女性は美しい。しかし僕の方を振り向いてはくれない。それでも女性を愛したい。しかし僕の愛を受け入れてはくれない。それでも遠くで祈りを捧げ続けるべきなんじゃないか。しかし……

 

人間を捨てよ!

 尊敬できるその道のフォロワーと話すと、少し盲が啓かれた感じがあった。

 その一、死んではならない。何故なら死んだら小説を読めず、書けないため。手を動かし続けて小説と向き合おう。それはきっと楽しいことの筈だから。

 その二、インセルになってはいけない。愛されることはないのだから、あまり人間に期待せず、憎悪を抱かないようにしよう。女フォロワーはかわいいし、何がその周りを取り巻いていようとも、それは変わらない筈だから。

 その三、人間をやめなければならない。人間関係に冷淡になって、小説に打ち込め。さもなくば俺は死す。いいな。

 と、まあこれは僕の感じたことであって、直接言われたこととは多かれ少なかれ違って僕脚色が入っているが、まあ、そういうことを感じ、思った。

 しかし、そこまで振り切れられるだろうか? いざ色んなものを捨てて小説に打ち込もうとしても、そこで女性が現れ、また消えたら、もうどうにもならない気がする。

 そこで生まれるであろう解けないような蟠りをなかったことに出来るだろうか。

 異性愛規範を壊したいとかではなく、むしろそれにドップリなだけに苦しんでばかりいる。しかし、死んだら生まれる筈だった小説は生まれない。それは悲しい。

 どんなにつまらない小説でも、書かないよりはいい。では、どんなにつまらない生でも死ぬよりはいいのだろうか。答えは考えないでおくけれど。

 鬱と距離を取り、人間の感情ともなるべく距離を取り、あまり感情的にならずにストイックに小説を書きたい、理想としては。

 得意不得意はさておき、自分は小説に合っているのかも知れない、と思う。思うことにする。他に好きなことは、気心の許せる人とのお喋りと食事、睡眠、オナニー、Twitter

 小説はきっと健康にいい。祈りくらいの意味はある。自己療養へのささやかな試みではある。

 

日はまた昇る

 夜が明けたが、これは明けない夜はない、ということを意味しない。これは、日はまた昇るということを意味する。

 私は世界だから分かる。世界は私だから分かる。

 すべてのことに意味があるわとは思わないが、意味のあることもある。この世界は一人の人間の中身で、それは一人一人の人間の中身で、その一人は私だ。

 自殺行為の一環として、カフェイン剤を大量に服用してから、川に飛び込んで岸辺で憔悴していたとき、長い長い夜だった。

 その時、死ぬんだと思って、川の向こう岸が、彼岸が見えた。夜だから水の重たいうねりがあった。

 僕はタスケテーとかダレカーとかキュウキュウシャーなどとぼやぼやうめき続けていた。やがて誰か助けを呼んで救急車が来た。もう朝だった。

 酷薄なまでに日はまた昇る。この世界は変わらないし、どうにもならない。

 あ一応言っておくと、これは別に、小説を読んだら鬱が治るとか死ぬのを止められるとか、当然そんなことを言いたいのではない。

 僕がたまたま小説の読み書きが好きで、それを再認識させてくれる友人がいたから、まだ生きているだけで、他の人は知らない。死んだ方が楽な場合はあるだろうし、悲しいけど悲しいだけだ。

 死んだ方がいいことはある。死は怖いけど。

 まだインセルでもあるし、全然人間でもあるけれど、早く解脱したい。解脱が無理だとしてもそちらへ行こうとし続けるしかない。

 以上。

 眠り、食事、死、文章、読み書き、生きること、鬱、回復、祈り。

 私は、と書き始めるのことのなんと容易なことか。それから書き継ぐことのなんと難儀なことか。そして書き終えることのなんと虚しいことか。文章なんぞ書いてなんとなる。

 という風に考えていた。今もたまに考える。ところがそうでないように思われてもくる。書くという実にパッとしない作業の中には面白みもあり、また困難な部分にも魅力がある。それに、そのために手を動かしている瞬間は、死なないでいられる。これは抽象的な意味でなく、単純に手が動いている間は死んでいないというだけのことで、「死なないでいられる」なんて書いてしまったのは、単に自分の中の感傷的な部分がそうさせたに過ぎない。

 とはいえ、私はそこまで即物的にばかり物事を考えているわけではないのであって、むしろ書くことには回復力とも治癒力とも言っしまえそうな力がある気がする。

 というのは、先日人と話していてその人が話していたことだから、私が積極的にそういうことを直感したわけでもないかもしれないが、それはそうとして実感できる事柄としてある。

 書くことは祈りになる。その祈りが無力で無意味な場合もあろうが、ささやかながら大事なことだと思う。力や意味の外にいて、別の法に則って生きるということは。

 今はブログを書いているが、本当は小説を書きたい。面白い小説の概要を書きはしたが、まだ粗が目立って書き始められない。それを磨くためにも、やはり文章を書かねばならない。今書かれてあるこの文章はそのための助走のようなものだろうか。後になって書けたのなら、それの時になってやっとこれは助走であったと言えるのかもしれない。

 毒にも薬にもならなそうなこんな文章を書いているのは眠いような眠くないような頭をどちらかに傾けるためだ、と書いてみると強ちこれが間違ってもいなさそうな気がしてくる。毒にも薬にもならないような文章ばかりが生成される。

 パソコンを開いてキーボードをタイプしていればもう少しマシな文が書かれてあっただろうか。それとも、このフリック入力によって書かれつつある文章と変わらなかったろうか。何にせよ、今は然程気分が落ち込んでいないのが幸いだ。

 生きるために書こうと思っている節があり、また書くために生きようと思っている節もあるのだから、鬱状態に陥っていなくて良い。特段、鬱の時の方が書けるという感覚をあまり強く意識したことがないため、どうせ同じような文を書くなら、気分の波がない方が楽だ。

 鬱によって生まれた文章を後で書き直そうとしても書き直した部分が元の部分と上手く噛み合わない可能性があるうえ、気分が落ち着いている時の方が文章の制御が効きやすく、生きていくのならそちらをベースにしていきたい人間としては、あまり鬱にもたれてもいられないだろう。

 自意識なんてよく分からないブラックボックスなのだから、そんなものとまともに対峙しようとは思えない。それよりかは、こうして生成されていく文章の方が余程確かなものという感じを与える。

 無論、文章に上手下手はあるだろうが、こうして独り言を呟くようにして書いてい内の時間は楽だから、まあそれでいいとする。何も言わず書かずよりは、よっぽど自己療養になっているのではないかとも思う。

 それにしても、なんでもない気分でも横たわって書けるからスマホフリック入力はいい。その代わり、指が痛くなるしなんでもない気分のまま書くのを放ってしまうこともあるから一長一短なのだが。

 かなりの度合いで気分が落ち込んでいてもTwitterはできるし、ブログを書くのも苦ではない。身構えずに出来る。向き不向きがあるとしたら、自分はきっとTwitterやブログには向いているのかもしれない。いや、Twitterは書くこととは別に人間関係があるから、そう言い切るのは難しいか。

 なんだかんだ言ってもTwitterは楽しい。それは暇つぶしの楽しさであり、人間関係の楽しさであり、人に他愛もない文章を書くことの楽しさであり、また人の他愛もない文章を読むことの楽しさだと思う。実際に会って話すこととは違うが、それは単にどちらかが劣っているのではなく、本来の現実がTwitterでは変形されてあるというだけのことように思える。

 交換日記や長いDMのやり取りをしたいなと、ふと今思った。人の考えていることは分からないにしても、人の書く文章に対しては、多少歩み寄っていけそうな雰囲気がある。文章にしても結局は分からないことには違いないが、なんというか、好きなのだ、根本的に文章が。

 書くことも読むこともなんだかんだ好きだ。文章は現実や他の創作物に比べて情報が少ないはずだが、それは単に想像力を働かせられるという一点のみが長所ではないだろう。

 通話も好きだ、気心の知れた人と話すのが好きだ。通話では文章とは違う方法で言葉が進行し、停滞し、遡行し、循環する。会話にしてもそうかもしれないが、通話と言った方が何故か嬉しいことのようにと悲しいことのようにも、ありありと思い起こされる。

 語り過ぎてしまうことがあり、黙り過ぎてしまうことがある。生きることと同じように不慣れなままで、上達はしないのかもしれない。それに加えて現実には、好かれるか嫌われるかというもっと分かりすく残酷な評価軸がある。

 私はその評価軸に芯まで貫かれているだろうが、微細な感覚器のような部分でそれが全てではないと感知していられているから、まだ立てている。死んでいない。

 いつのまにか放り出されていた相対性の海で溺れ死にかけては度々何かに救われている。だからまだ死んでいないし、書けている。書いていることと生きていることに一体どんな関係や意味があるのかは定かではないし、無理に紐付けようとも思わない。ただ、死んでいたら書いていない。ごく当たり前の事実として。

 一人でいることが好きということとも繋がるのだろうか、読み書きが好きというのは。しかし読み書きは一人ではできない。他に書く人がいて、また読む人がいなければ。いや、こういう考えは余りにも他者ありき過ぎるだろうか。世界に自分以外が誰もいなかったら、などと益体もないことを考ようとするが、出来ない。

 読み書きが好きというのは、本が好きです、というくらい範囲が広過ぎる。読んでいて嫌いな文章だと思うこともあれば、書いていてつまらないなと思うことだって、よくある。

 今自分が文章と人生とを無理に紐付けて語ろうとしているのに気づいて、嫌な気がした。文章の中に何か展開が欲しいがために、そういう風にでっちあげてしまうのだろうか。それは読まれることを意識しているのではなく、読まれてからどう思われるのかということにばかり考えを寄せ過ぎているのではないか。

 こんなことを書かせるのは自意識だろうか。自分が文章を書きながら次第に気鬱になっていってるのだとしたら、嫌だし、恐ろしい。

 いや、大丈夫だと思う。大丈夫な筈だ。胸は苦しくないし、まだ書けている。

 書くことはない、書くべきことなどない。そうと悟っていながらに書くのは書くのが好きだからに違いない。私は何もなすべきことはないと悟っていながら生きているが、これは辛い。なすべきことがあるのだとしたら、それはそれでまた辛い物思いを強いられる。

 こうして平常時の自分が訳知り顔で鬱のひどいときの自分とさも同じ人間であるかのように文章を連ねていくのは傲慢だ。肉体としては同じ人間には違いなかろうが、それが全てでもなかろう。

 手で掴めるというのは大事だと思う。何かというと、手で掴めないものの話ばかりしていると観念的になってしまって、余程精緻に組み上げられないのなら、袋小路にはまってしまうことになりかねない。

 鬱がひどいときの自分を、健康ではないにせよ平常時の自分は裏切ることにならざるをえない。でなければ、鬱の時に凝固した強い信念のために自分は死んでいなければならない。鬱の私が平常時の私を裏切るかのように何もかも台無しにしてしまうのだから、心が凪いでいるかのようなときに多少後で悔いるようなことをするのも、仕方のない心の動きだと思う。

 自分の現在の行動が良く転がるか悪く転がるか分からないから、無力感を抱き、計画的な行動を出来ず、無関心になっていくのか。それとも、一個人を取り巻く環境は多かれ少なかれ人間をそういった類の状況へ追いやるのだから、ただ抵抗力が弱いということなのか。

 ただそれだけ、という言い方はスタイリッシュに思えるが、ただそれだけであることなぞ中々ないのではないか。私は何事にも複雑な要因が絡み合っているのだと世界を認識しているため、先の「ただ抵抗力が弱い」なんて書き方には反発を覚えた。書き方ではない、書かれた文章に。そんなものを書いてしまう自分に。

 一言二言で何かを言い表すことは、きっと難しい。その精度を高くするのは更に難しい筈だ。しかしながら、一言二言で何かを言い表せるものか、と常に思い悩んでいる人間としては、何かを一言二言で言い表してしまう人間がどれだけの苦悩をしているかは考えないままに、幾らかの不信感を抱く。

 何も言い表すことは出来ないのかもしれないという言葉への不信感が、私をここまで書かせるのかも分からない。書き尽くすこと自体はない。なんでもない、毒にも薬にもならない話をしている。堂々めぐりの助走である。

 最終的には何も言えないということを分かっていながら書き、また言う。祈りのように言葉を重ねる。無力な曳航によって何かに近づき、遠ざかる。

 既に書き始めて1時間以上が経っているが依然眠気は訪れず、頭も冴えるわけでもない。それでも腹は減る。たとえ死にたくても、味がしなくても飯は食べてしまう。習慣の所為もあろうが、食べるとある程度は落ち着く。

 

 

 

 

インターネットへのお気持ち

 ほんの弾みで引用してたらかなり書くのが億劫になってしまったので、引用と引用の間に少しだけ書いて済ませることにする。まあ、もとはTwitterの話をTwitterのスペースで人としてたら、何か纏まったことを言いたくなっちゃっただけなのである。(なお、纏まったことは言えていません。)

「なぜ書くのか? という質問に答えて」

 

 なぜなら芸術は生なきものに生を死なきものに死を吹き込むから。

 なぜなら芸術の嘘は、実際、人生の優雅なテロよりマシだから。

 なぜなら上手く刻みつけられた墓碑銘はわれらの貪欲な死神をうんざりさせるから。

 なぜなら時はすぎ去らないので、(ベケットがいうようになにしろ何も起こらない)そうやって時間をつぶすしかないから。

 なぜなら小説(フィクション)はこの世界をファックするエキゾチックかつ馴染みの最高の体位だから。

 なぜなら小説(フィクション)はこの世界が喋るように絶望的かつ美しく喋るから。

 なぜなら神は物語作者のイメージに似せて創造され、それを破壊できるのはその創り手をおいて他にいないから。

 なぜなら芸術は常に期待を裏切るその依怙地さで不調和に調和をもたらすから。

 なぜなら小説(フィクション)は冒瀆によって人生を神聖なものにするから。

 なぜならその愛すべき不毛さ、あきれるばかりの虚勢ゆえに。

 なぜなら書くことはこの想像を絶する広大無辺の宇宙において、今でも最も素晴らしい冒険だから。

 そしてなぜ書くかといえば……ああ他に何があるだろう。

 

ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』(白水Uブックス)「フィクションの醍醐味とは」p.368~369

 それで、出た話が確か、インターネットで活動してる大学の文化系サークルがどうとか、インターネットと現実の繋がりがどうとか、メンヘラとかアングラなカルチャーをポップなコンテンツにして出すのはどうなんだとかだった。我らの故郷、インターネット。インターネットに実存をかけていこうとか、そんな感じ……。

とかアゲるだけアゲたあとの この虚しさ恥ずかしさ
誰かわかる?
なんの声援も届かない
まるでイケニエだよ 祭りの夜に闇に差し出された
喉が渇いたな 息もあがってるし けっこう叫んだし
これがアイドル? ただの騒いどるじゃないか
100万ドルも目の前通り過ぎる
自意識のワンマンショー
さっきまで腕振ってたファンはそれぞれ勝手に談笑
さあこれから こっちは一人でひたる感傷
暗く過ごす 夜の続き
つらく残る コンサートホールの響き
ああ

 

月ノ美兎「NOWを」

 しかし、どうしようもないものはどうしようもないのであって、個人的結論めいたことを言うと強く生きようとか、己の生の文体(スタイル)と向き合おうみたいな、ぼんやりしてもいるようなところに落ちついてしまう。肌で実感できていないことは分からない阿呆なのです、私は。

なぜ書くか……

 この質問は多分倫理的なもので、論理的なものではないはずだ。論理的には質問自体が答えをふくんだ、メビウスの輪である。作家にとって創作は生の一形式であり、単なる選択された結果ではありえない。「なぜ」という問いが、「生」の構造の一部であり、生きる理由に解答がありえないように、書く行為にも理由などあるはずがない。

 しかし倫理的にはいささかノスタルジーを刺激する質問である。こういう質問が可能な(解答の当否は別にして)希望にあふれた時代があったことは否定できない。だが積載量過剰のトラックのような時代をくぐりぬけて、作者は失望し、かつ謙虚になった。死の舞踏でも、下手に踊るよりは上手に踊った方がせめてもの慰めである。

 夢の中で幻の越境者が夢を見る……

 

安部公房『死に急ぐ鯨たち』「なぜ書くか……」p.9

 異文化理解とか他者理解とかってのは、本来自らのアイデンティティを揺るがすような熾烈なものだろうし、作品に触れるのもやはり危険なのである。というか、危険だということを忘れてはならないだろ。

ときよとまれ!
綺麗なままで
いつか忘れて
しまう位なら
この見開き
ページのままで
輝くままに
ほっといてくれ

ときよとまれ!
綺麗なままで
いつか忘れて
しまう位なら
この見開き
ページのままで
輝きのままにほっといてくれ

 

ひがしやしき「時よ、止まれい!」

 もはやインターネットとは所詮虚妄であるところの現実と地続きでしかないと認めざるをえず、そこで賭けられる実存なるものもやはり虚妄でしかありえないのだ。しかし透明な世界だって、色を錯覚出来てる方が楽しくまた苦しい筈で、諸行無常であることを悟りながらも、まっすぐ目の前のことに手を動かしていくしかないんじぇないんですかねえ!

僕はもう21歳で、何も変わっていない

 本当の僕は、出来る限りずっと殻に篭ってたいんじゃないか、そんな風に思うことがあるんだ。まだ男子高校生みたいな、そんな気分なんだよ、本当にさ。でも、その実、21歳の無職で、まだナイーヴな気分を引きずってるだけ。それだけ。全くおかしいよ。だってそうじゃないか、本当の自分、なんてないのにね。

 あのさ、今日は色んなことを考えたんだ。風呂場で放尿するときに、ここがプールの飛び込み台の上だったらとか、目を閉じないで眠ったら、夢の中でも暗くないのかなとか。考えてないんだ、そんなことしか。誰かの役に立つこととか、そういうのを考えるのはきっと向いてないんだ。だから、一人でいたい。

 それから、「Sonny Boy」ってアニメを見たよ。これは凄く良いアニメでね、なんかジーンって来ちゃったな。でも、こんなことを書いてるとさ、自分が馬鹿みたいに思えるんだよ。「ナンカじーんッテキチャッタナ」なんてさ。僕にはないんだよ、優れた言語化能力とか、でなければ優れた創造力とか、ないんだ。

 「いつまでそこでそうやって拗ねてるの」って叱って欲しいのかもしれない。僕はアニメの主人公でもないんだから、そんなことを言ってくれる人はいないって、そんなこと考えなくても分かってる筈なのに。いつか、隠された才能が一気に僕の人生を変えてるんじゃなきかって、本気で思ってる。いや、本気とは、言えないか。

 何も変わらないんだ。アニメみたいなことは起こらないんだ。でも、それはアニメが作りごとだからとか、そんな理屈じゃないと思う、上手くは言えないけど。アニメとか、小説とか、好きなんだ。素敵なお話をずっと見てたいよ、実際の人生で傷つくのは、嫌だから。

 こんなことをさ、僕は言ってちゃダメなんだ。僕はもう21歳で、僕がいる世界は凄くつまらないところなんだ。泣きそうになるくらい、嫌なことがいっぱいあって、終わらない。こんなことを言ってるとさ、どうせまた誰かから説教されるんだよ。良くないのは、分かってるよ。

 いや、困ってるふりをしてるだけなのかも、しれない。急に僕とセックスをしてくれるって女性が現れて、それに衝撃を受けて、なんか分かんなくなっちゃったんだよ。自分で分からなくしてるだけでしょって、君なら言うかな。それとも君なら、大丈夫だよって声をかけてくれるのかな。まあ、もういないんだ。そんな人たちはもう、いないんだよ。

 生きているのがずっと寂しい。こんな悩み、どうすればいいんだろうね。鬱でいる方が落ち着く自分もいるんだ、だから、今こうやってウジウジしてて内心気持ちいいよ。働けば、考えも変わるのかな。なんか、ごめん。

 許してほしいんだ。褒められたいんだ。慰めてほしいし、好きって言ってほしいんだ。気持ち悪いよね。泣いても死んでも、意味なんてないしさ、どうせ僕には世界を変えられないんだ。

 うん、話せてよかった。ありがとう。

 

 

ノートの書き起こし+8/29

 一昨日、紙のノートにメモ書きをして、その写真を撮ってツイートしたが、読みにくいので文字起こしをする。

 

 難しい。

 しかし、「難しい」と言ったところで、それは何も言っていないようなものである。

 と、誰かが言っていた。いや、誰かではなく友人のSくんで、それもSくんも誰かから聞いた。

 で、何が難しいのかと言うと、これもなんだか分からない。

 小説のことかもしれないし、人生や生活のことかもしれない。

 今はノートに書いている。紙に。

 特に意味はないが試行錯誤の一環だ。

 最初は長時間話しながら、スペースを開こうかとも思ったが、止した。

 それは疲れそうだ。

 しかし、紙に書くのも疲れる。

 今書いているノートにはマス目があって、それに逆らうのが難しい。

 小説をどうやって書けばいいんだろう。

 どうやって書き繫げば。

 私の部屋に監視カメラを付けてもそれだけでは小説にならないだろう。

 ……。

 生きていること、思っていること、上手く言い表せない。

 言い表した途端につまらないように思える。

 暑くてムシャクシャする。(喘ぐ)

 この部屋で透明人間がセックスしてるみたいに暑い。

 人に見せられるような文字を書こう。元から字が汚いが多少は努力しよう。

 考える速度と手の速度が噛み合わないとかでなく、(多分)バランスが取れない。

 しかし、それにしても、さて、うーん、音MAD見たい。

 ↑これのことを「吹き出し」ならぬ「吹き込み」と平出隆が書いていたが、多分正式な名前ではないだろう。

 文字……。を書かなきゃ(億劫すぎる)

 レイアウトや注釈で遊んでいるのではなく、紙だと、

 急に文字を小さくしたり、大きくしたりするのが自然に出来る。

7 (読みにくいだろうなあ)(ごめんなさい)

 さっきまで机の上を眺めていた。ペンでその本やペン箱を布置を縁取ったら、→小説になるか?

 紙で書く方が思考を要求されるな。消すのがダルいから。か

 何を考えていたんだっけ。後で書き起こすの面倒だし、かなり感じが変わっちゃうから

 時間も分からない。スマホで書いてないから、手慰みに19:07とか書けない。

 マジで本当に書くことなんてない。←誰がそんなやつの文を読む/みたいと思う←思っても言うなのやつだ。恋愛テクか?

 「アー」とか書いてもつまんないしな。声、書けないしな。

9 ↑泣きたいため

 酒飲もうかな止めた最近暑いね風呂入りたくないね甲子園どこが買ったの。

 処理水放水して、プリゴジンが死んでみたいなニュースちゃんとはいってきてるよ。

 ウー

 アー 

 

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 少し雰囲気が変わってしまっているので、元の写真とオマケを付けておく。

 

 今日はブックの日だったので、ブックオフに行って、柴田元幸の訳している『ナイン・ストーリーズ』を購った。嬉しい。早速野崎孝の訳している新潮文庫版と訳文を比べた。近々読書会をするので、「笑い男」だけまず喫茶店で読んだが、柴田元幸訳の方がスピード感がある気がする。しかし、訳のことはよくわからないので、ピクルスのたっぷり乗ったパン、というかサンドというか、そのウィンナーの挟まってあるやつを食べて帰った。

 帰って直ぐにシャワーを浴びて着替えた。なんとかったるいことか。『葉書でドナルド・エヴァンズに』が届いていた。嬉しい。早速少しだけ読む。良い、葉書に書いてあるところが想像できる、温かみのある素朴な文章だ。

 焼き鯖を食べた、脂が乗っているというのだろう、うまい味だった。骨があったが、除いた。部屋に戻るとベッドの上に本を散らかしすぎて、寝れないのでベッドの下半分に身をもたれてTwitterを見た。

 まあ、あとは「Sunny Boy」を9話まで見たくらいなのだが、これは後日ちゃんと見終えてから感想を言うことにする。それでは。

 

世界の女にセックスは死を言葉は男性器をするか

 私は日が昇る前に公園に行き、そこで一番高い木に鋼鉄のロープを結わえつけて、全身にガソリンをかけて、睡眠薬を大量に飲んでから、マッチを擦って全身に着火し、慌てて首を吊った。死んでいる私を、日が昇ってから見つけるであろう通行人には申し訳ないが、こうでもしないことには不安で仕方なく、また不安に耐え絶望に耐えて毎日生き抜くことも不可能に思えた。意識は体から遠ざかって、木の下に溜まっていった。少しずつ溶けた意識が、ぶら下がっている木の下の方に溜まっていると、意識は意識していた。でも、段々論理的に考えれば火で燃えて空気中に消えるんじゃないかと思った頃には、空気中に霧散して、その一部に自分がなっているつもりだった。目がなかった、視野がないが、薄ぼんやりと知覚できる世界は、静かで、後ろから、音がした。

 

 ──俺は、死んだのか。

 ──俺は、死んでないよ。

 ──そうか、死ねなかったのか。

 ──お前が飲んだ睡眠薬は致死量には遠く及ばなかったし、お前が全身にかけたのはガソリンではなく灯油で、それも火は早々に消えてしまっていた。首は吊れていたが、それも家にいないのを不審がったお前の親が見つけて、助け出した。

 ──ああ、大変な迷惑をかけたなあ。

 ──だが、お前はもう余程死にたいということだろうから、後日改まって殺されるかもしれない。

 ──殺されるのか、そうか。

 ──嫌か。

 ──嫌には違いないが、そうと言える筋合いはないから、殺されても仕方ない。

 ──今は病院だが、意識だけが分裂してしまっているお前をどうにか、どこかへ飛ばせないものか。

 ──そんなことは叶わなんだろう。

 ──そうかもな。

 

「お名前と今何日か分かりますか?」

「左馬二郎、何日かは分かりませんが八月です」

「はい、分かりました。では、暫く安静にしていてくださいね」

「あの」

「なんですか」

「僕は死ぬんでしょうか」

「まだ確かなことは言えませんが、山場は過ぎたと思います」

「そうですか、ありがとうございます」

 

 私は安らかだった。病的の静かで明るい空気と医師や看護師の配慮された対応のために、私は安らかな気持ちで数日を過ごせた。身体の調子はところどころ悪く、感情にも波があったが、概ね安らかで、常に交響楽に身を委ねているようだった。願わくば永遠にここで暮らしていたかった。段々と歩けるようになってしまうので、それが悲しかった。私の体は回復していた。回復することによって、私は元の世界に組み込まれ直された。死とセックスの世界だ。少なくとも、私にはそう見える世界だ。手元にペンと紙があったから、それに色々とメモ書きをした気がする。元は数独のための紙で、看護師に頼んで得たその紙は、私は数独は苦手なので、数独には使われなかったその紙は、裏返されてメモ書きに使われた。メモ書きはこうだ。「コーヒーのミルク、フレッシュと言ったかもしれない、それを垂らすみたいに、意識と時間は流れる」それからこうだ。「幼い頃に自分がこうなっているのを見たら、なんと言ったろう、なんと声をかけたろう。私は幼い私と話しがしたかった。幼い頃の私しか相応しい話し相手はいないように思える。」そして、「この世界の象徴としての女に抱擁されて、安らかに首を折れれば」だ。

 

 ──あなたは何を考えているの。

 ──僕は死とセックスのことを、女と言葉のことを、世界と男性器のことを考えているんだよ。

 ──なんで?

 ──意味はないさ。

 ──なんで意味はないの?

 ──僕は卑怯な方法を、つまり子供の面倒な質問を躱すために話題を逸らすという方法をとるけど、僕はどう見える?

 ──痛そう。

 ──なんでかな?

 ──首にプラスチックついてるし、手に包帯ついてるから。

 ──それと、顔から赤い傷が見えるからかな。

 ──そう。で、なんで意味ないの?

 ──いいね。意味はなくてもいいと思ったからね。結局、永遠に不利な戦いを強いられるてるのに、意味とか言ってられないんだよ。

 ──戦ってないじゃん。

 ──戦ってるよ。君とかを守るために。君とかを僕みたいなのから守るために。

 ──ふーん。もう帰る。

 ──ああそう、さよなら。

 

「お前は俺とセックスをしなければならないよ」

「嫌」

「美しい目だ」

「見ないでください」

「本当に美しいよ、君は。絶滅危惧種のトカゲみたいな白い肌だね」

「やめてください」

「セックスをしよう、俺と。それが世界のためだ、お互いのためにもなる」

「私のためになんかならなくていいです、世界のためなんて尚更です。私はあなたを拒絶しています。それ以上近寄るなら、殺します」

「そうか。死そのものであるところ男性器を振り払おうとはね。最近の子は進んでるのかな」

「今近づきましたね?」

「いや、そんな」

「さようなら。お前は既に私の女性器の圏内に踏み込みました。押し潰れなさい」

「あっ」