のたくって眠りの底から這い上がると、痺れの仲間なのか、腕の中で蛇のようなものが動いている。あまり突っつくと暴れるかと思って、頭だけ腕の上から移動させて、暫く様子を見ることにしたかったが、この蛇、こちらの動向とは関係なしにビリビリと動く。その刺激にのたうち回りそうになりながらも、体がベッドに磔にされている暗示を無心で自分にかけて体を動かさないことに集中していると、あっさり消えて跡形もなくなっていた。なんだったのか。やはり、太り過ぎなのだろうか。それとも、何かの思い込みか。夢の感覚の名残か。得体が知れにないままのたくって消えた。外から眺めるている分では、腕には何の異常もなさそうだ。ただ、外から眺めて分かることなどたかが知れている。
痙攣は前にも経験があったが、こんなにも生き物らしいのは初めてだった。無論、本当に蛇が入ってしまったわけはなく、その生き物らしさは俺自身の体が持つ生物らしさなのだろうが、それにしても異物感は凄かった。あれで終わりならいいが、何かの初期症状かもしれないから、検査でもしておくべきだろう。念の為に行って、なんでもなかったら恥ずかしいので、一応ネットで調べようか。[腕の中 蛇がいるような感覚]。案外何でもないのかもしれない。ただの水分不足や塩分不足。夏だからそういうこともあろう。
ただ、結局は痩せろという話になってきそうで、そうだった場合のことを思うと億劫だ。痩せるのがそんなに偉いか!と凄みたくもなるが、実際は太っているのが卑しいだけかもしれない。健康のことを考える前にもっと生活の楽しみのことや、心の栄養となるようなことを考えたい、というのは倒錯しているかもしれないが、そこの楽しみや栄養のあたりが上手く行ってないから太ってるわけで、ただ頭ごなしに痩せろとか食うなとか言われるのは、俺としても不服だ。しかしながら、健康であることは良いとされていて、実際良いと言ってしまっていいようなものだ。それが気に食わない。とはいけ、病気にかかったら病院に行きたいし、何か事故にあったら入院もしたい。だから、健康様や病院様には楯突けない。些か情け無いとは思うが、不健康な自分が健康であることに勝つ術はない。諸行無常なり。
検査を受けるだけ受けて、「では痩せてください。それだけです。薬?そんなもん要らないですよ。太ってるだけなんだから。そうでしょ?」なんて一笑に附されたら呆れるべきか怒るべきか悲しむべきか分からない。昔は林檎が赤くなれば医者が青くなるなどと言ったらしいが、現代の医者がそんなことで青くなるところはとても想像できない。それに医者だって患者が多すぎて困ってるくらいのものだろう。とすれば赤い林檎の果糖に怯えているととることは出来るかもしれない。
そういえば、アダムとイブに知恵の実を勧めたのは蛇ではなかったかと、思考が飛躍する。何故そんなことを無学な俺が知っているのかと言うと、星新一の『進化した猿たち』という、アメリカの一コマ漫画を解説している本で、アダムとイブネタが多かったから、そこで蛇も扱われていたのを覚えているからなのだ。例えば、蛇が「お次はこれを……」とかなんとか言って、オレンジをイブに勧めるのだ。どうやら女性は妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるらしく、そこまで用意周到なのかよ!というギャグだ。蛇は俺には一体何をもたらしてくれるというのだろうか。このまま糖尿病患者になったらインスリン注射ということになるだろうか、え?
そういえば眠っている間は随分幸せな夢を見ていた気がする。かつて好きだった、今でも心残りのある、実際には何の関係にも発展しなかった女性とスーパーで食材選びをしながら、食卓のことを語っている夢だった。細部はすっかり欠けてしまっているが、起きたときのガッカリ感だけは覚えている。自意識というブラックボックスの中で、日夜錬成されている夢は良いのでも悪いでも、結局嫌な思いをしてしまう。起きた時のガッカリ感か、寝ている間の恐怖か。どうにもならないものだろうから、これをどうこうしようとは思わないが、それにしてももうちょっとマシな睡眠にならないものか。或いは、もうちょっとマシな人生に。
マシな睡眠といのは想像が出来る。少なくとも、マシな人生などというものよりは余程具体的に想像が出来る。それは、起きたときにガッカリせず満足する睡眠であり、寝ている間に恐怖せず充足する睡眠だ。いや、これも抽象的と言うか、言葉の上でひっくり返しただけで、具体的な想像と呼べるものからは程遠いだろう。だがそうであればあるだけ、マシな人生と言うものの形が見えてこない。決められた形があるわけではなにしても、大体こういうことだと指し示せれば、まだ具体的な方策の取りようもありそうだが、そんなことは出来そうにない。出来るのは甚だ不明瞭な想像だけで、それは何となく今よりもマシな人生としか言えないのだ。
もっとマシな人生に、もっといい人生に、もっといい経験や過去や想像力を、俺に。これでは想像とは呼べない。ただの惨めな嘆慨といったあたりだろう。だが、嘆きでない願いに切迫したものががあるだろうか。そして切迫した願いでないもないのに、身につまされるような想像力を働かせることなど出来るだろうか。無論身につまされるような想像力なんてものはたった今でっち上げた用語に過ぎないし、仮にそれが俺にあったとしても俺の現実が変わっていないのは他ならぬ事実だ。しかし、この身につまされるような想像力の重みを誰に否定出来るわけでもない。
まず俺はその想像力を駆使してこんな風に想像ことが出来る。俺の現実は暗く、明るい過去が幾らかあったにしても、明るい未来を想像することは不可能に近い、ということが喉元に突きつけられているように感じられる。そして、それはこの太って醜い体と、幼稚で愚かしい心によるもので、これらは中々手強い敵で一朝一夕に倒せるものではない。これはさっきの喉元に突きつけられているようなというほどではないが、それなりに切迫感を持って理解できる。加えて、それでも恋愛との格闘を諦めるわけにはいかないということさえ想像できている。あるいはこれは信念の問題なのかもしれないが。
或いは、これは物のついでのような想像だが、この現状はすべてさっきの腕の中の蛇が握っているようなものだ、と言えるかもしれない。言えるだけで何の妥当性もないことは重々承知の上だが、それでもそう考えることは可能だし、俺がそう考えることにはなんらの不思議もないとさえ言える。何故なら俺は暇で、妄想好きだからだ。妄想中毒者と呼んでもらってもいい。ユーモアを解する心があるかどうかには今一つ自信がないが、笑うのは好きだ。だから日がな可笑しなことを考えているが、それで笑っているわけではない。笑うに笑えない。今一つ、なのだ。
だから口角が特にあがることのない日々を送っていて、辛うじて表情筋が駆使されるときと言えば、飯を口の中に詰め込んで咀嚼している時くらいのものだ。美味くもないスカスカの林檎を、炊き忘れた米の代わりに麻婆豆腐と一緒に食べる。麻婆豆腐が美味いだけだが美味いのに変わりはないから文句もない。文句を言える立場にない。言ったところで俺の作った俺の飯なのだ。それに、そう、本当に俺は文句を言える立場にない。現実にぶら下がって生きているだけの俺が、一体どうして文句を言えようか!そして、一体誰がその文句を聞き入れてくれるというのか!
俺はもうすっかり平時の感覚に戻った腕に却って違和感を覚えながらも、麻婆豆腐を口に運び、そう思った。不平不満なら山とあるが、言ってどうなるでもないし、そこに希望が入り込む余地は毫もない。だから俺の口から出る言葉はおしなべて現状解決を目指した文句ではなく、嘆きだ。或いは、言ってもどうにもならないようなことを言った方がいいばかりか、言わねば世間の為にならないということもあろう。現実に跋扈する悪しき現象、悪しき人間、悪しき言葉を是正することなくやり過ごすのは、長期的に見て賢明とは言えない、と。
これに、「賢明であることにどんな価値が?」という横槍は入れられるはずだし、今の俺は正にこの横槍にぐっさりやられて凡ゆる善性への努力を怠っている。賢明であることにも鋭敏であることにも謙虚であることにも、今更どんな価値があるというのか。モテず愛されず萎びていくだけの人生で価値のあることなどあるのか、とも言い換えられそうだ。
俺は麻婆豆腐の入っていた空っぽの深皿に水を注ぎ、シンクに溢した。水を注ぎ、溢し、また注ぎ、また溢すのを繰り返している内に皿を叩き割って壊したくなったが後片付けのことを考えてシンクにそっと置いた。こういうギリギリのところで踏みとどまる判断が出来るようになるということが、大人になるということであり、無意味な人生を生きるということである。勿論嘘だ。ただ今おれがそうしたことは今俺がそうしたというだけだ。俺は叩き割ることも出来たが、ただそれも詰まらなく思えて止したというだけだ。
時々、恋人が出来たところで何も変わらないんじゃないかと思う。友人にも言われる。何一つ、一切変わらずに何の慰めにも癒えにもならずに、ただ恋人がいるというだけの状態。それを考えるのは恐ろしいけど、それでも今よりはマシだ。深刻に自殺のことを考えざるを得ない日が続くよりはきっとマシだ。そう思わないと生きられないのか?何か言い訳がないと死ねないのか?もう、充分死に値するだけの人生を送ってきているというのに。
血糖値が急激に上昇し、眠くなる。こういう行動の所為でまた太るというのに、また苦しい夢を見るというのに、また蛇のような痺れが来るかもしれないというのに、また怖れと憂鬱とに苛まれるかもしれないというのに、また何も変わらないと決まっているのに、生を延長させるように、俺は眠る。