鯖色

はい。

死の女の世界にセックスは男性器を言葉はするか

 女が世界にいないことはないが、その名前のない道を歩んでいる時ほど世界にいると実感したことはなかった。名前のない道は、山道であり岩場で、突風が吹けば女性器もろとも、女は死ぬ。女はロープを手繰って、突風が吹かない内に上を目指していた。女が世界の中でロープを手繰り上を目指すことに、暗喩的な意味を見いだそうとする者もいる筈だが、その場には誰もいなかったから、誰もそんなことは思わなかったし、女もまさか自分に暗喩的な意味を見出そうなどとはしなかった。山の遠くで、男性器が突風に煽られて折れた。子供に遊ばれて倒れたゴムのポールのように、もうその男性器が立つことはなかった。その男性器は、女の女性器に入ったことがなかった。対して女の女性器には、色々なものが入っては出ていったから、一体何が入ったもので、何がまだ入っていないものなのか、女自身も分からなかった。いや、そもそも意識していなかった。女が山の中腹で放尿したとき、男性器を折られた男の憎しみがあれば、そこで竹槍でも刺したかもしれない。しかし、それで一体なんになろう。女の一人を殺しても何にもならないことを、男は分かっていた。それでか、女の女性器には竹槍も何も刺さらなかった。ただ、女が熊笹の葉で女性器を拭いたとき、女性器を切り裂いて血が迸った。血の色は濃かった。それがその時の女の、世界にいるという感覚を強めた。

 

 ──熊笹なぞで、女性器を拭くものではありませんよ。

 ──けれど、何もなかったのよ。

 ──いや、他にもいくつもあった。植物や鉱物に限らず、生き物の死骸もあれば、人間の捨てて行ったものもあった。お前はその中からわざわざ熊笹の葉を選んだ。

 ──いいじゃない、別に。そりゃ、衛生的ではないでしょうが、ないよりはいいでしょ。熊笹だって、比較的マシよ。

 ──お前は男性器を入れるべきだった。

 ──は?

 ──お前はそこに落ちている偽の男性器によって女性器を塞ぐべきだった。塞がなかったから、今もこうして荒魂の私と話す羽目になっている。荒魂ばかりではない、なにもかもお前を破壊しにくる。

 ──知ったこっちゃないわよ、何それ。

 ──熊笹なぞ、真ん中に裂け目を入れれば女性器そのものではないか。お前は自らの背負う女性器の業に傷をつけられたのだ。

 ──荒魂がいい加減なことを、ほざく。何でもかんでも、私の中でいい加減なことを。去れ!

 

「山、良かったよ」

「そう、帰ろう」

「あ、うん。本当に行かなくて良かったの?」

「疲れるし」

「そう、だよね。虫とか多いし」

「今凄く緑臭いよ」

「え、嫌だな」

「青臭いっていうべきなのかな」

「どっちも同じだよ。えー、嫌だなあ」

「まるで冷たい緑内障が世界を霞ませていくように」

「『ザ・ロード』、もっといい文章他にあるでしょ」

「山って老いた感じがするよ。それで緑臭いのかな。緑内障ってなったことないから、緑なのかわからないけど、臭いのかな。目ヤニとかは匂いあるよね。まあ、山って別に目とかないし、こういうの意味ないか。いや、たまに連想というか、喋り続けてないと落ち着かなくて今それになっちった、気づいてると思うけど。うーん、女臭い山とかあるのかなあ、なんて……」

 

 私は荒魂だかまつろわぬ神だか分からない何かが自分の中に入ってきた感覚を、数年前に精神を病んでいたときの感覚のようだと思った。それは、あの体験自体が病的というのではなく、精神を病んでいると自分の中に自分ではない、しかし自分から乱反射して帰ってきたようなものが流入してくる感覚があったからだと覚えているからだが、具体的には思い出せない。家の近くに幾つも竹が生えているところがあるが、そこを通るたびに何かを思い出そうとして上手くいかない。ただ、青緑の縦線としてしか、思っていなかった竹が、何かに見える。それは分断というよりは、何か異なるもの同士を貫通するためにあるように見える。それは、文字の素材に見える。天井に入った亀裂に見える。私はそこを過ぎて家に帰りつく。知らない男がいる。男は私を知っているようだ。彼にはすべてが把握されている、ようだ。

 

 ──何故逃げる、何故隠れる。

 ──私は、あの人を知らない。

 ──逃げるな、隠れるな。

 ──あの人は、私を大きな、嬰児のような大きな目で見てきた。それが怖い。

 ──お前はセックスされたのだ。

 ──してないよ、私してないよ。

 ──あの男はすべて知っているかもしれないし、お前はあの男の何も知らずにいるかもしれないが、やがてあの男のいる場所は戻らねばならない。

 ──なんでなの。

 ──あいつは彼岸のその始め、元の彼だ。

 ──元の彼。

 

「やあ、セックスをしましょう」

「嫌です、私はあなたとはしたくありません」

「セックスはあなたをしたがっています」

「嫌です、あなたとは私したくありません」

「私のセックスはあなたの女性器に入ることです」

「嫌です。なんで、セックスをされなきゃいけないんですか」

「理由なんてものはない。セックスはやがて行われる」

「でも、今じゃない」

「ですが、やがて行われます」

「それまでに、お前を殺す」