鯖色

はい。

インターネットへのお気持ち

 ほんの弾みで引用してたらかなり書くのが億劫になってしまったので、引用と引用の間に少しだけ書いて済ませることにする。まあ、もとはTwitterの話をTwitterのスペースで人としてたら、何か纏まったことを言いたくなっちゃっただけなのである。(なお、纏まったことは言えていません。)

「なぜ書くのか? という質問に答えて」

 

 なぜなら芸術は生なきものに生を死なきものに死を吹き込むから。

 なぜなら芸術の嘘は、実際、人生の優雅なテロよりマシだから。

 なぜなら上手く刻みつけられた墓碑銘はわれらの貪欲な死神をうんざりさせるから。

 なぜなら時はすぎ去らないので、(ベケットがいうようになにしろ何も起こらない)そうやって時間をつぶすしかないから。

 なぜなら小説(フィクション)はこの世界をファックするエキゾチックかつ馴染みの最高の体位だから。

 なぜなら小説(フィクション)はこの世界が喋るように絶望的かつ美しく喋るから。

 なぜなら神は物語作者のイメージに似せて創造され、それを破壊できるのはその創り手をおいて他にいないから。

 なぜなら芸術は常に期待を裏切るその依怙地さで不調和に調和をもたらすから。

 なぜなら小説(フィクション)は冒瀆によって人生を神聖なものにするから。

 なぜならその愛すべき不毛さ、あきれるばかりの虚勢ゆえに。

 なぜなら書くことはこの想像を絶する広大無辺の宇宙において、今でも最も素晴らしい冒険だから。

 そしてなぜ書くかといえば……ああ他に何があるだろう。

 

ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』(白水Uブックス)「フィクションの醍醐味とは」p.368~369

 それで、出た話が確か、インターネットで活動してる大学の文化系サークルがどうとか、インターネットと現実の繋がりがどうとか、メンヘラとかアングラなカルチャーをポップなコンテンツにして出すのはどうなんだとかだった。我らの故郷、インターネット。インターネットに実存をかけていこうとか、そんな感じ……。

とかアゲるだけアゲたあとの この虚しさ恥ずかしさ
誰かわかる?
なんの声援も届かない
まるでイケニエだよ 祭りの夜に闇に差し出された
喉が渇いたな 息もあがってるし けっこう叫んだし
これがアイドル? ただの騒いどるじゃないか
100万ドルも目の前通り過ぎる
自意識のワンマンショー
さっきまで腕振ってたファンはそれぞれ勝手に談笑
さあこれから こっちは一人でひたる感傷
暗く過ごす 夜の続き
つらく残る コンサートホールの響き
ああ

 

月ノ美兎「NOWを」

 しかし、どうしようもないものはどうしようもないのであって、個人的結論めいたことを言うと強く生きようとか、己の生の文体(スタイル)と向き合おうみたいな、ぼんやりしてもいるようなところに落ちついてしまう。肌で実感できていないことは分からない阿呆なのです、私は。

なぜ書くか……

 この質問は多分倫理的なもので、論理的なものではないはずだ。論理的には質問自体が答えをふくんだ、メビウスの輪である。作家にとって創作は生の一形式であり、単なる選択された結果ではありえない。「なぜ」という問いが、「生」の構造の一部であり、生きる理由に解答がありえないように、書く行為にも理由などあるはずがない。

 しかし倫理的にはいささかノスタルジーを刺激する質問である。こういう質問が可能な(解答の当否は別にして)希望にあふれた時代があったことは否定できない。だが積載量過剰のトラックのような時代をくぐりぬけて、作者は失望し、かつ謙虚になった。死の舞踏でも、下手に踊るよりは上手に踊った方がせめてもの慰めである。

 夢の中で幻の越境者が夢を見る……

 

安部公房『死に急ぐ鯨たち』「なぜ書くか……」p.9

 異文化理解とか他者理解とかってのは、本来自らのアイデンティティを揺るがすような熾烈なものだろうし、作品に触れるのもやはり危険なのである。というか、危険だということを忘れてはならないだろ。

ときよとまれ!
綺麗なままで
いつか忘れて
しまう位なら
この見開き
ページのままで
輝くままに
ほっといてくれ

ときよとまれ!
綺麗なままで
いつか忘れて
しまう位なら
この見開き
ページのままで
輝きのままにほっといてくれ

 

ひがしやしき「時よ、止まれい!」

 もはやインターネットとは所詮虚妄であるところの現実と地続きでしかないと認めざるをえず、そこで賭けられる実存なるものもやはり虚妄でしかありえないのだ。しかし透明な世界だって、色を錯覚出来てる方が楽しくまた苦しい筈で、諸行無常であることを悟りながらも、まっすぐ目の前のことに手を動かしていくしかないんじぇないんですかねえ!