鯖色

はい。

 眠り、食事、死、文章、読み書き、生きること、鬱、回復、祈り。

 私は、と書き始めるのことのなんと容易なことか。それから書き継ぐことのなんと難儀なことか。そして書き終えることのなんと虚しいことか。文章なんぞ書いてなんとなる。

 という風に考えていた。今もたまに考える。ところがそうでないように思われてもくる。書くという実にパッとしない作業の中には面白みもあり、また困難な部分にも魅力がある。それに、そのために手を動かしている瞬間は、死なないでいられる。これは抽象的な意味でなく、単純に手が動いている間は死んでいないというだけのことで、「死なないでいられる」なんて書いてしまったのは、単に自分の中の感傷的な部分がそうさせたに過ぎない。

 とはいえ、私はそこまで即物的にばかり物事を考えているわけではないのであって、むしろ書くことには回復力とも治癒力とも言っしまえそうな力がある気がする。

 というのは、先日人と話していてその人が話していたことだから、私が積極的にそういうことを直感したわけでもないかもしれないが、それはそうとして実感できる事柄としてある。

 書くことは祈りになる。その祈りが無力で無意味な場合もあろうが、ささやかながら大事なことだと思う。力や意味の外にいて、別の法に則って生きるということは。

 今はブログを書いているが、本当は小説を書きたい。面白い小説の概要を書きはしたが、まだ粗が目立って書き始められない。それを磨くためにも、やはり文章を書かねばならない。今書かれてあるこの文章はそのための助走のようなものだろうか。後になって書けたのなら、それの時になってやっとこれは助走であったと言えるのかもしれない。

 毒にも薬にもならなそうなこんな文章を書いているのは眠いような眠くないような頭をどちらかに傾けるためだ、と書いてみると強ちこれが間違ってもいなさそうな気がしてくる。毒にも薬にもならないような文章ばかりが生成される。

 パソコンを開いてキーボードをタイプしていればもう少しマシな文が書かれてあっただろうか。それとも、このフリック入力によって書かれつつある文章と変わらなかったろうか。何にせよ、今は然程気分が落ち込んでいないのが幸いだ。

 生きるために書こうと思っている節があり、また書くために生きようと思っている節もあるのだから、鬱状態に陥っていなくて良い。特段、鬱の時の方が書けるという感覚をあまり強く意識したことがないため、どうせ同じような文を書くなら、気分の波がない方が楽だ。

 鬱によって生まれた文章を後で書き直そうとしても書き直した部分が元の部分と上手く噛み合わない可能性があるうえ、気分が落ち着いている時の方が文章の制御が効きやすく、生きていくのならそちらをベースにしていきたい人間としては、あまり鬱にもたれてもいられないだろう。

 自意識なんてよく分からないブラックボックスなのだから、そんなものとまともに対峙しようとは思えない。それよりかは、こうして生成されていく文章の方が余程確かなものという感じを与える。

 無論、文章に上手下手はあるだろうが、こうして独り言を呟くようにして書いてい内の時間は楽だから、まあそれでいいとする。何も言わず書かずよりは、よっぽど自己療養になっているのではないかとも思う。

 それにしても、なんでもない気分でも横たわって書けるからスマホフリック入力はいい。その代わり、指が痛くなるしなんでもない気分のまま書くのを放ってしまうこともあるから一長一短なのだが。

 かなりの度合いで気分が落ち込んでいてもTwitterはできるし、ブログを書くのも苦ではない。身構えずに出来る。向き不向きがあるとしたら、自分はきっとTwitterやブログには向いているのかもしれない。いや、Twitterは書くこととは別に人間関係があるから、そう言い切るのは難しいか。

 なんだかんだ言ってもTwitterは楽しい。それは暇つぶしの楽しさであり、人間関係の楽しさであり、人に他愛もない文章を書くことの楽しさであり、また人の他愛もない文章を読むことの楽しさだと思う。実際に会って話すこととは違うが、それは単にどちらかが劣っているのではなく、本来の現実がTwitterでは変形されてあるというだけのことように思える。

 交換日記や長いDMのやり取りをしたいなと、ふと今思った。人の考えていることは分からないにしても、人の書く文章に対しては、多少歩み寄っていけそうな雰囲気がある。文章にしても結局は分からないことには違いないが、なんというか、好きなのだ、根本的に文章が。

 書くことも読むこともなんだかんだ好きだ。文章は現実や他の創作物に比べて情報が少ないはずだが、それは単に想像力を働かせられるという一点のみが長所ではないだろう。

 通話も好きだ、気心の知れた人と話すのが好きだ。通話では文章とは違う方法で言葉が進行し、停滞し、遡行し、循環する。会話にしてもそうかもしれないが、通話と言った方が何故か嬉しいことのようにと悲しいことのようにも、ありありと思い起こされる。

 語り過ぎてしまうことがあり、黙り過ぎてしまうことがある。生きることと同じように不慣れなままで、上達はしないのかもしれない。それに加えて現実には、好かれるか嫌われるかというもっと分かりすく残酷な評価軸がある。

 私はその評価軸に芯まで貫かれているだろうが、微細な感覚器のような部分でそれが全てではないと感知していられているから、まだ立てている。死んでいない。

 いつのまにか放り出されていた相対性の海で溺れ死にかけては度々何かに救われている。だからまだ死んでいないし、書けている。書いていることと生きていることに一体どんな関係や意味があるのかは定かではないし、無理に紐付けようとも思わない。ただ、死んでいたら書いていない。ごく当たり前の事実として。

 一人でいることが好きということとも繋がるのだろうか、読み書きが好きというのは。しかし読み書きは一人ではできない。他に書く人がいて、また読む人がいなければ。いや、こういう考えは余りにも他者ありき過ぎるだろうか。世界に自分以外が誰もいなかったら、などと益体もないことを考ようとするが、出来ない。

 読み書きが好きというのは、本が好きです、というくらい範囲が広過ぎる。読んでいて嫌いな文章だと思うこともあれば、書いていてつまらないなと思うことだって、よくある。

 今自分が文章と人生とを無理に紐付けて語ろうとしているのに気づいて、嫌な気がした。文章の中に何か展開が欲しいがために、そういう風にでっちあげてしまうのだろうか。それは読まれることを意識しているのではなく、読まれてからどう思われるのかということにばかり考えを寄せ過ぎているのではないか。

 こんなことを書かせるのは自意識だろうか。自分が文章を書きながら次第に気鬱になっていってるのだとしたら、嫌だし、恐ろしい。

 いや、大丈夫だと思う。大丈夫な筈だ。胸は苦しくないし、まだ書けている。

 書くことはない、書くべきことなどない。そうと悟っていながらに書くのは書くのが好きだからに違いない。私は何もなすべきことはないと悟っていながら生きているが、これは辛い。なすべきことがあるのだとしたら、それはそれでまた辛い物思いを強いられる。

 こうして平常時の自分が訳知り顔で鬱のひどいときの自分とさも同じ人間であるかのように文章を連ねていくのは傲慢だ。肉体としては同じ人間には違いなかろうが、それが全てでもなかろう。

 手で掴めるというのは大事だと思う。何かというと、手で掴めないものの話ばかりしていると観念的になってしまって、余程精緻に組み上げられないのなら、袋小路にはまってしまうことになりかねない。

 鬱がひどいときの自分を、健康ではないにせよ平常時の自分は裏切ることにならざるをえない。でなければ、鬱の時に凝固した強い信念のために自分は死んでいなければならない。鬱の私が平常時の私を裏切るかのように何もかも台無しにしてしまうのだから、心が凪いでいるかのようなときに多少後で悔いるようなことをするのも、仕方のない心の動きだと思う。

 自分の現在の行動が良く転がるか悪く転がるか分からないから、無力感を抱き、計画的な行動を出来ず、無関心になっていくのか。それとも、一個人を取り巻く環境は多かれ少なかれ人間をそういった類の状況へ追いやるのだから、ただ抵抗力が弱いということなのか。

 ただそれだけ、という言い方はスタイリッシュに思えるが、ただそれだけであることなぞ中々ないのではないか。私は何事にも複雑な要因が絡み合っているのだと世界を認識しているため、先の「ただ抵抗力が弱い」なんて書き方には反発を覚えた。書き方ではない、書かれた文章に。そんなものを書いてしまう自分に。

 一言二言で何かを言い表すことは、きっと難しい。その精度を高くするのは更に難しい筈だ。しかしながら、一言二言で何かを言い表せるものか、と常に思い悩んでいる人間としては、何かを一言二言で言い表してしまう人間がどれだけの苦悩をしているかは考えないままに、幾らかの不信感を抱く。

 何も言い表すことは出来ないのかもしれないという言葉への不信感が、私をここまで書かせるのかも分からない。書き尽くすこと自体はない。なんでもない、毒にも薬にもならない話をしている。堂々めぐりの助走である。

 最終的には何も言えないということを分かっていながら書き、また言う。祈りのように言葉を重ねる。無力な曳航によって何かに近づき、遠ざかる。

 既に書き始めて1時間以上が経っているが依然眠気は訪れず、頭も冴えるわけでもない。それでも腹は減る。たとえ死にたくても、味がしなくても飯は食べてしまう。習慣の所為もあろうが、食べるとある程度は落ち着く。